2015年3月26日木曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 5[日野草城]/ 依光陽子


置かれたるところを去らぬ子猫かな  日野草城

猫好きの俳人は多い。猫の句だけで句集を編む人もいる。そういえばここ数年わが生活圏ではまったく野良猫を見かけなくなった。かつては捨て猫や捨て犬など頻繁に見かけたものだが、今や私にとっての猫は記憶を引き出してくれるキーワードだ。裏の家のクールな飼い猫の貌や、父親に捨てるよう言われながら半日抱いていた子猫の骨だらけの躰の記憶。

掲句は捨て猫だろうか。袋か籠の中にタオルなど暖をとれるものを敷き、心ある人に拾われますように、と目につく場所に置かれている。子猫は、いつもとは違う、忍び寄る変化を敏感に感じ取りながらもじっとしている。

掲句の前にはこんな句が見える。<猫の恋老松町も更けにけり><しげしげと子猫にながめられにける><猫去つて猫の子二つ残りけり>。連作として読むと、この子猫は親猫に一時的に放置されたもののようだ。親猫はさっさと自分の恋路に出かけてしまった。言いつけを守ってか、外界を怖れてか、その場を離れない二匹の子猫。偶然頭上に現れた草城の顔をしげしげと眺める。「しげしげ」とは草城が子猫に見透かされている風で、また品定めされている風で可笑しい。

しばしの後その場を立ち去る。歩きながら、もしかしたら親猫は戻って来ず、自分が見捨てたことで奴等は餓死するかもしれない。しかし一人で生き延びなければならないのは、人も猫も同じだ。そんな風にどこかで自分自身を納得させながら歩を進める背中に、まだ確かに子猫への情を引き摺っている。それがこの句から伝わってきて、私はそんな草城のこの一句から去りがたくいる。

さて、草城は大正10年4月<遠野火や寂しき友と手をつなぐ><春雨や頬と相圧す腕枕><ストーヴを背に読む戯曲もう十時>を含む8句でホトトギス巻頭を取っている。当時草城20歳だ。これらの若く清新な句に比べると掲句を含む第2句集『青芝』(昭和2年から昭和4年までの句)は彼の繊細な感受性は垣間見えるものの、少々穏当すぎる。早々と表向きの花鳥諷詠パターンを手中にした草城の倦怠期か。この頃、草城はホトトギス同人に推挙されているが、すぐに4Sの時代が到来し、やがて結社内での地位は目に見えて落ちてゆく。さらに6年後新興俳句運動を推進しホトトギスを除名されることを鑑みるに、『青芝』はこの全盛と凋落の両極に挟まれた凪の時代の句集とでも言えようか。

「然し、いづれもその時々の僕の心境に敵へるものであつて、このたびはこれで満足してゐる僕である」
(句集『青芝』跋より)

掲句に戻る。「置かれたるところを去らぬ」はその時の草城の置かれていた状況と重なる。留まるべきか去るべきか。なぜ去らぬのだ。草城が眼下の子猫に「可愛らしい」「憐れ」といった一般的な感情以上のものを抱いたと鑑賞しても、決して深読みではないだろう。

みちわたる潮のしづかな朧かな
まぼろしの大きな船や実朝忌
屋根替のこまかき雨にきづきけり
孜々として地球に鍬を加へゐる
種蒔やおもひにゑがく花美(くは)し
木蓮のはつきり白し雨曇
かの窓に星を祭る灯いつかあり
  一つゐて中有にあそぶ蛍かな
蟷螂にひびける鐘は東大寺
寒稽古青き畳に擲たる
火を埋めて赤々と脱ぎほそりける
道を問ふ人探梅の志
柊を挿すあしもとの灯影かな

(『青芝』昭和7年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)