2015年3月16日月曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 3[五十嵐播水]/ 依光陽子




春宵や字を習ひゐる店のもの 五十嵐播水

「古梅園」と前書きがある。古梅園は天正5年(1577年)創業の墨の老舗だ。

宵の口、町がまだ暗くなる前の薄明の頃、店の前をふらりと通りがかった。春のあたたかな宵だから、きっと戸口を開け放ちていたのだろう。丁稚か奉公人か、商いが終わって、字の手習いをしている姿が見えた。店主の心配りか。あるいは、墨の老舗のものが字が読めぬ書けぬでは話にならない。ましてや美しい字を書けなくては恥ずかしい。と、そんな小言を店主に言われたのかもしれない。文机の上には墨と硯と半紙。正座して背筋をしゃんとして。筆先から真っ直ぐに紙に下ろすんですよ。そうじゃない、そこはしっかり撥ねて。

一心に字を習う姿に、いっとき歩を止めて見入ってしまった。

古梅園は奈良が本店だが、これは京都の古梅園だろう。春宵という季題がそう思わせる。


掲句は播水京都時代の句。京都大学の掲示板の句会案内の貼り紙を見て、「一つ参拾銭の木戸銭を奮発して有名な虚子の顔を見て来てやろう」と冷やかし半分に出席した句会がきっかけで俳句に病みつきになったという。その熱心さを鈴鹿野風呂は『播水句集』の序文の中で「只すべてをやきつくさんとする熱」と書く。落ち着いた詠みぶりの奥にある俳句への情熱は、堅実に自己の俳句道を歩んでゆく原動力となった。


大試験今終りたる比叡かな 
花篝更けたる火屑こぼしけり 
遠泳に耐えたる四肢を眺めけり 
潮焼けの面ひとしき双子かな 
川床のはらはら雨もおもしろし 
足もとに波のきてゐる踊かな 
山川のある日濁りぬ葛の花

(『播水句集』昭和6年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)