白皙の給仕に桜憑きにけり 竹岡一郎
人心を惑わせる植物として、桜はしばしば引き合いに出されるもののひとつである。
掲句では「桜」は白皙の給仕に「憑いて」いる。桜の実景がそこにあるかどうかは、わからない。樹木でなく、人から「桜」を感じたのだ、というふうに読むと、かえって花の気配が強まって感ぜられる。桜の化身、桜の精、などという言い方でなく、「狐憑き」ならぬ「桜憑き」として、桜が擬人化されず人のなかに気配として在る、そんな「在り方」が暗示されているからだろうか。
この給仕は人間なのだろうか。音もなく現れ、静かな所作で盆のものをテーブルに移す、給仕の姿が目に浮かぶ。
そこが桜の下であろうとなかろうと、この人物は「桜憑き」なのだと感ぜられる。透き通るという表現もあてはまらぬほど、図抜けて白い皮膚を持つ給仕が佇む。たとえば淹れ立ての紅茶を置かれたとしよう。テーブルの上に白い茶器が美しく配置されている。かすかに湯気をたてる紅茶。美味しそうだな、と感じると同時に、これは一体何なのか、と手が止まる。自分の知っていた「紅茶」とはこういうものだったか?
「桜憑き」が饗するものとはどんなものだろう。口にしてみたい気もするし、そもそも怖くて触れられないのかもしれない。永遠に時間が止まってしまったような構図に、魅入られてしまった。
〈「蜂の巣マシンガン」ふらんす堂/2011〉