行秋やこないなとこに人の家 矢上新八
過ぎ去って行く秋の景に、人家をみつけた。「こないなとこ」の大阪・京都あたりの関西弁が面白い。はんなりとした響きがある。しかし、繰り返し読み続けると、移り変わる季節、その次に世の中の殺伐とした全体の景が浮かび、その風景の中にいる「こないな」を使う人が貴族的階級の人なのではないか、という想像が働く。河原、人里離れた山奥、船着き場の片隅、はたまた工事現場、ゴミ置き場や不法地帯、ビル屋上、地下の秘密基地、ツリーハウス、テントなどもそれにあたるだろう。もしかしたら格差社会の底辺かもしれない人たちの様子に驚き、生きることのたくましさに感心し、同じ暮らしは出来ない、と腹をくくっているようにも読める。
句集のところどころに話し言葉ともいえる大阪弁が駆使されている。NHK時代劇「銀二貫」朝ドラ「マッサン」で久々に大阪弁を身近に感じられたばかりだったが、作者は大阪弁での句を30年以上も作っておられ、生れも大阪北区の商家のお生まれである。
身一つがどないもならん秋の暮
なんやはじまる山懐の笛太鼓
行く夏に捨るもんほって昼寝かな
「どないもならん」「なんや」「ほるもん」「むさんこ」「よおさん」・・・やわらかいだけでなく、どこか女性的な響きがある。調べると、大阪弁の中には船場言葉といわれる商人の言葉があり、京都の女言葉が交じり、商いや取引で必要な丁寧・上品さがあるといわれている。 助詞の「が」「を」が省略され、例えば「目が痛い」は、「目エ痛い」となる。句のイントネーションは、もしかして「秋の暮」が「アキのクレ」になるべきなのか考えた。いや違う、「身一つ」の句は、船場言葉では「身イひとつ」で五音となるべきだろうが「が」が入り「身一つが」として「どないもならん」に重きがかかっている。他では代用が効かない大阪言葉を観念として駆使するのは簡単にはいかないだろう。認知度の高い大阪弁、それもある程度の階級意識が高いといわれている船場言葉だからこその世界を創り出している。
ちなみにインターネットの質問箱検索で大阪弁の「こない」を検索してみると、現在、四十代以下は使用していないという回答が多く寄せられていた。「こないなとこ」は、もはや消えてゆく方言に分類され、むしろ、古典表現になるのかもしれない。
掲句は住む世界が異なれば言葉も異なった大阪弁により不思議な物語を紡ぎ出す。
( 作者は巻末に「方言の索引」として「大阪ことば辞典」他を参照に解説をつけていらっしゃる。何処にも船場言葉とは記載していない。)
<「浪華」2015書肆麒麟所収>