桜餅ひとりにひとつづつ心臓 宮本佳世乃
前回は中山奈々さんと〈心臓〉をめぐる話で終わった。奈々さんにとって〈心臓〉は〈どっかにある〉ものだった。
佳世乃さんにとっては、どうか。
それは、「ひとりにひとつづつ」あるものだ。
どうしてこんな〈当たり前〉なことに語り手は気がついたのか。
それは季語「桜餅」を通しての発見だった。私はそう思う。
桜餅は、餡がピンクのもち米によって包まれ、さらにそれが、塩漬けされた桜の葉によって包まれている食べ物だ。ある意味で、構造化された食べ物であり、きちんと〈定型(作り方)〉が決まっている〈定型的な食べ物〉だ。
〈心臓〉も、そうだ。わたしたちが〈どう〉あがいても、奈々さんが〈どっかにある〉と措定しても、〈心臓〉は〈ひとりにひとつづつ〉しかない。それが〈心臓〉の〈定型〉だ。ひとつにひとつずつ餡が律儀に詰まった「桜餅」みたいに。
そしてその〈当たり前〉の〈心臓〉の〈事態〉を語り手は〈律儀に・きちんと〉定型におさめた。定型的な心臓を定型でもういちど組織化した。それが語り手にとっての〈心臓観〉になるんじゃないかと思う。定型できちんと〈心臓〉をおさめられたこと。そうで《しか》ないあり方で〈心臓〉を詠むこと。生の律儀さを、みくびらないこと。
ひとつづつ細胞の核春の山 宮本佳世乃
語り手は〈これしかない〉身体に気がついている。ひとりにひとつずつの心臓、ひとりにひとつずつの手、ひとりにひとつずつの足、ひとりにひとつずつの内臓、ひとりにひとつずつの細胞の核、ひとりにひとつずつの身体の《仕組み》。わたしたちの身体は、桜餅のように、驚くほど律儀だ。
死に行くときも焼きいもをさはつた手 宮本佳世乃
そのひとりにひとつずつ与えられた身体の仕組みを背負って死んでいくことも、語り手は、ちゃんと知っている。ひとりにひとつずつ与えられた「手」をもって、わたしたちは、死んでいくのだ。
それは、公務員のような神様が、律儀にもわたしたちにひとりにひとつずつ与えた、生だ。
(「星に塗る」『鳥飛ぶ仕組み』現代俳句協会・2012年 所収)