この世でもあの世でもなく耳の水 野間幸恵
句集『WATER WAX』のいちばん最後に収められたのが掲句である。最後まで読んだあとにもう一度頭から読み始めて気がついたのが、この句集はこんな句で始まっている。
耳の奧でジャマイカが濡れている 野間幸恵
つまりこの句集は〈耳〉と〈水〉をめぐる場所から始まり、そうしてまたその最後にいたって〈耳〉と〈水〉にたどりついたのだ。
では、なにが変わったのか。
「耳の奧でジャマイカが濡れている」は、「ジャマイカ」という特定の場所である。そこではいわば、語り手はまだ「ジャマイカ」という特定の場所にとらわれている。また「ジャマイカ」を「濡」らしている水もまた、ジャマイカのなかに閉じこめられている。ここではある特定の〈場所〉が浮き彫りになっている。
しかし句集を通して語り手がたどりついた場所は「この世でもあの世でもなく耳の水」という「この世でもあの世でもな」い〈非・場所〉だった。もはやそこにた対象化し、特定できるような「ジャマイカ」は存在しない。「この世でもあの世でもない」ずっとたゆたう場所に語り手はたどりついたのだ。そしてそこに〈水〉が存在している。
この〈水〉は「耳の水」と「耳」のなかに閉じこめられた水かもしれないけれど、わたしたちが〈実感〉としてわかるように「耳の水」はあるとき突然わたしたちの「耳」から〈抜ける〉。それは〈濡れる〉という浸透の様態とは違い、どこかに〈流れ出る〉水なのだ。
つまり、わたしはこんなふうに、おもう。この句集が最終的にたどりついた場所とは、〈水化された非・場所〉なのではないかと。水のように滔々と流れ続ける〈場所〉。どこにも〈地点〉をみいだすことのない〈場所化できない場所〉。それがこの句集をめぐる〈場所〉の所在なのではないかと思うのだ。
無いものを探して耳のかたちかな 野間幸恵
俳句のなかでわたしたちは水そのものを旅したり、耳そのものを冒険したりすることができる。わたしたちは〈ここ〉にいるのではない。たえず〈ここ〉になることのできない〈ここ〉がわたしたちのなかに〈ある〉のだ。水、のような。
(『WATER WAX』あざみエージェント・2016年 所収)