2016年5月3日火曜日

フシギな短詩15[なかはられいこ]/柳本々々



  いとこでも甘納豆でもなく桜  なかはられいこ


「AでもBでもなく桜」と二度の〈否定〉を通してはじめて「桜」にたどりつくのが掲句だ。「いとこ」や「甘納豆」という具体名はあがるもののそれらがスルーされ、ながいながい遠回りをして語り手はやっと「桜」にたどりつく。

だからこの句をこんなふうに指摘してみたい。これは〈回避〉の句なんだと。語り手は〈回避〉することによってはじめて「桜」にたどりついたのだ。

しかし、なんのために〈回避〉するのだろう。はじめからひとは「桜」にたどり着くことができないのだろうか。

補助線を引くためになかはらさんのこんな〈回避〉の句もあげてみよう。

  行かないと思う中国も天国も  なかはられいこ
     (「黄身つぶす派」『川柳ねじまき』第1号・ねじまき句会・2014年 所収)

語り手はやはり二度の〈否定〉を通してある〈地点〉を指し示そうとしている。それがどこなのかはわからない。が、「中国」でも「天国」でもないことは確かだ。それは「中国」と「天国」を否定した先にみえてくる〈どこか〉なのだ。

でも考えてみてほしい。ひとはなんのために〈否定〉するのかを。しかも、二度も。

わたしはこんなふうに思う。語り手にとって「いとこ」や「甘納豆」や「中国」や「天国」は非常に磁力の強いものだった。〈否定〉しなければ、「いとこ」や「甘納豆」が「桜」の代替になり、「中国」や「天国」が語り手が〈行くべき場所〉になってしまうくらいに強度のあるものだった。だからこそ、〈否定〉しなければならなかったんじゃないかと。

でも〈否定〉することによって逆に浮き彫りになってきたのはむしろ「いとこ」であり「甘納豆」であり「中国」であり「天国」だった。〈否定〉という行為によって逆に語り手がいつも〈なに〉に意識を向けているかが逆照射されたのだ。

鶴見俊輔はかつて「書かないことが、書くことの中心にあり、話さないことが話の中心にある」と述べた。語らないことの方にむしろ語ろうとすることはある。

だから語り手にとって〈ほんとうの桜〉は、「桜」ではないのかもしれない。「いとこ」や「甘納豆」を《AでもBでもなくX》構文のXに代入できたときに初めて「桜」に出会えるものなのではないかとも思うのだ。つまり、語り手がもう〈回避〉する必要性を感じなくなったときにこそ、語り手は「桜」と正対できるんじゃないかと。

それまでは語り手にとっての「桜」は否定しても否定しても逆に否定することによって強度をもって浮かび上がってくる「いとこ」や「甘納豆」とともにあり続けるだろう。

でも「桜」にたどりつくことよりも、〈なかなかたどりつけなかった〉ことそのものにこそ私は意味を見いだしたい。〈回避〉しても〈回避〉してもやってくる〈なにか〉を思考しつづけることが実は語り手の生そのものになっているのでもないか。〈回避〉を生き直すこと。

思想家のラカンも言っていたはずだ。「あるひとつの経験を考察しようとするときに重要なのは、何を理解しているかよりも、何を理解していないかです」と(『フロイトの技法論』)。

そう、わたしたちは、わたしたちがいつも語ろうとしない〈回避〉のなかに《こそ》、棲みつづけているのだ。

          (「くちびるにウエハース」『川柳ねじまき』第2号・ねじまき句会・2015年 所収)