2016年8月5日金曜日

フシギな短詩29[柳谷あゆみ]/柳本々々



  シャイとかは問題ではない一晩中死なないマリオの前進を見た  柳谷あゆみ



マリオとは任天堂のゲームのキャラクターである。以前からマリオが短詩において〈死生観〉をひっぱりだすキャラクターであることに興味をもっていた。この柳谷さんの歌でも「死なないマリオ」としてマリオと死が関連づけて語られている。

なぜマリオは独自の死生観を引きずり出すのか。

これはそもそもマリオのゲームシステムと関連が深いように思う。マリオはさらわれたピーチ姫をクッパから救い出すために敵を倒して〈進む〉ことが目的であるアクションゲームだが、ステージの途中でなんども死ぬことを〈要請〉されるキャラクターである。そのためマリオは99個まで〈死んでもいい〉命をもつことができる。

マリオというゲームにとって〈死ぬ〉ことは〈生きる〉ことよりも〈大事〉である。なぜなら、ステージ途中にある仕掛けやプレイヤー特有の弱点を〈死ぬ〉ことによって学ぶからだ。なんどもなんども〈死ぬ〉ことによってプレイヤーは〈生き抜く〉ための〈固有〉の経験値を積んでゆく。

それがゲームの世界の〈リアリズム〉である。ゲームにおける〈死〉とは〈死〉ではなく、むしろ〈生〉の根っこになっている。

だからプレイヤーはマリオをプレイする過程のなかで、死についての経験値を重ねていく。もっと言えば、死についてなんどもなんども出会い、無意識にかんがえ、くわしくなってゆく。敵キャラクターの死、じぶんじしんの死、複数の死、バグの死、死なない死。

だから「シャイとかは問題ではない」。この〈死〉は〈内面〉に抵触しない〈死〉だからだ。

でも柳谷さんのこの歌集で注意したいのはこうしたマリオの〈死生観〉に対になるような〈死〉の歌がでてくることである。引用してみよう。

 
  ああ海が見えるじゃないか柳谷さん自殺しなくてよかったですね  柳谷あゆみ

なぜ語り手は「柳谷さん自殺しなくてよかったですね」と語りかけたのだろう。それは「自殺」したらそこで〈終わる〉からだ。「死なないマリオ」ではない語り手は、もし「自殺」した場合、「ああ海が見えるじゃないか」という《たったそれだけ》の発話さえできなくなるのだ。それがマリオの死の〈複数性〉に対するこの歌の死の〈一回性〉である。その意味で、「マリオ」ではない「柳谷さん」はたった〈一回〉しか生きられない存在である。しかもこの歌は対なのだから、「柳谷さん」は「シャイ」を問題にするひとでもある。ここに「シャイ」の秘密がある。

「シャイ」=恥ずかしさ、とは、なにか。それは〈一回〉しか、〈一度〉しか生きられないことだ。だから、〈恥ずかしい〉のだ。「シャイ」が問題になるのだ。やり直せないから。

何度でもやり直すことができる「マリオ」は「シャイとかは問題ではない」。でも「柳谷さん」はちがう。「柳谷さん」はなんどでもやり直せない。だから「シャイとか」も問題になるし、この「海」もマリオのドットの海とは違い、たった「一度」だけ出会える「海」なのだ。だからこそ「ああ」と語り手は感嘆している。マリオには感嘆ができない。

たった〈一度〉しか生きられないこと。わたしたちのすごくシンプルな生のリアリズム。でもだからこそ語り手は「失っ」たものをとうとぶこともできるのだ。マリオがいくらしたくてもできなかったこととして。たとえば、

  こんにちはみなさんたぶん失ってきたものすべて うれしいよ会えて  柳谷あゆみ

          (「弱い夜」『ダマスカスへ行く 前・後・途中』六花書林・2012年 所収)