二億年後の夕焼けに立つのび太 川合大祐
こんな問いから始めてみたい。野比のび太。かれはほんとうは《誰》なんだろう。どこの《時間軸》に住んでいる人間なんだろう。
のび太はドラえもんからたえず未来を喚起させながらも、ずっと現在の時間軸に留まりつづけている。毎日0点を取り続け、おそらく百年後もおなじ小学校に通いおなじ0点を取り続けているだろう。
0点というのはおそらくのび太が現在の時間軸から逃れられないことの象徴でもある。0点〈以上〉が取れないのび太に次の段階へと移動する線条的時間(進歩史観)は与えられない。かれは、ずっと、おなじ学校に、おなじ服に、おなじ家に、おなじ関係に、おなじ0点に、ループしている。
もちろんそれは〈週刊もの〉のキャラクターだからと言えばそれまでなのだけれど、のび太をこんなふうに言うこともできるかもしれない。かれは〈不死の人〉であると。0点というのは、そこからどこにも行けなくなってしまった人間の魂であると同時に、もはや費やす命さえもゼロになってしまった〈死なない人間〉の0なんじゃないかと。
アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスはかつて〈死なない人間〉はどのような人間であるかをテーマにした短編「不死の人」を描いた。死ぬ人間と死なない人間はなにが違うのか。
死すべき命運をもつ人間には、あらゆるものが二度と起こりえないものの価値をもち、それはいってみれば偶然的なものだ。一方、不死の人びとには、反対に、あらゆる行為(そしてあらゆる思考)は過去においてそれに先行したものの反響であるか、未来においてめくるめくほど繰り返されるものの正確な兆候である。…一度だってそれで成就しうるものはありえないし、またはかなく消え去るものもない。
(ボルヘス、篠田一士訳「不死の人」『現代の世界文学 伝奇集』集英社、1975年)
死なないということは、あらゆる体験を経験しつくすことだ。死なないということは無限の時間を手に入れることであり、今わたしがなにかを経験しても、それはどうせ過去に経験しているのだし、未来に経験するだろうといった《ぞんざいでぼうばくとした生》に身をつっこむということだ。
ボルヘスは自作「不死の人」について自身でこんなふうに語っている。
「不死の人」の中心的な物語は、一人の不死の男が、不死であるが故に自分の過去を忘れてしまうというものです。これは、自分がホメーロスであったことを忘れたホメーロスの物語です。もしも時間が無限に長いものだとすれば、いずれある時に、わたしたちのすべてが『イーリアス』を書くことになる、というよりむしろ、ある時すでにそれを書いてしまっているのかも知れないのですから。
(ボルヘス、鼓直・野谷文昭訳『ボルヘスとの対話』国書刊行会、1978年)
だからもしあなたが〈死なない人間〉であるならば、あなたはシェイクスピアにも夏目漱石にもドストエフスキーにも村上春樹にもなれるだろう。あなたは過去に村上春樹だったし、未来でシェイクスピアだったろう。のび太もかつてはホメーロスだったのだ。
実は体験や経験は有限であってこそなのだ。この経験が《二度とできないかもしれない》という有限性がわたしたちの体験や経験の価値をつくっている。
だから不死のひとは茫漠としたゼロ経験の生をいきている。しなないというのはそういうことだから。自分になにが起きても、自分がだれであっても、それはもはや起こったことであり、これから起きることであるのだから。
そして、ドラえもん=タイムマシンで無限の時間を手に入れてしまったのび太もある意味で「不死の人」なのだ。彼が0点に〈なにも感じなくなってしまっているように〉彼は不死のひとになりかけている。
長い遠回りになってしまったが、川合さんの句をみてみよう。「二億年《後》の夕焼け」と、ここでは時間が〈幅〉ではなく、〈点〉として明示されている。語り手が示したかったのは、どれだけ無限の時が流れようとも、その一点しか明示できない〈点としての時間〉である。「二億年後」は〈たった一回〉しかやってこない。それはループする時間ではない。〈前〉と〈後〉があるような線としての時間である。その「後」を語り手はのび太に与えた。
「夕焼け」は毎日やってくる。その意味で「夕焼け」もまた〈不死のひと〉である。きょうみる夕焼けはかつて見た夕焼けかもしれないし、これから見る夕焼けかもしれない。でも「二億年〈後〉」という〈点としての時間〉=〈線としての時間〉をのび太に与えたことで「夕焼け」は一回性のものとなる。そして「のび太」はその「夕焼け」のなかで「立」っている。つまりかれはその「夕焼け」を身体でもって生きようとしている。たぶん、たった一度きりの、夕焼けを。
それはもしかしたら「二億年」生きたのび太が「死」を感じたしゅんかんかもしれない。「二億年後」と時間の経過を意識するということは、いずれ〈死ぬ自分〉を意識するということでもあり、たった一回の出来事と、たったひとりの誰かと別れを「さようなら」を告げることを受け止めることになるからだ。
挽歌的なもの、沈痛なもの、儀式的なものーーそれらのものは不死の人びとにとって重要なものではない。ホメーロスとわたしはタンジールの大門で別れた。たしか、わたしたちは「さようなら」もいわなかったように思う
(ボルヘス「不死の人」前掲)
「不死の人」にはもちろん「さようなら」は意味をもたない。どのみち過去に「さようなら」していたのだし、未来にまた「さようなら」をするからだ。だが、一度きりの夕焼けを意識したのび太は違う。もうこない夕焼けは「死ぬひと」の自覚である。何度もループする0点は、たった一度しかない夕焼けの〇に変わった。
「二億年後」ではあったけれど、のび太は、今、「夕焼け」のなかで、だれかに、せかいに、なんらかの「さようなら」を告げようとしている。死ぬひととして。「さようなら」のひととして。
七月は終わる牢にはドアがある 川合大祐
(「まだ人間じゃない」『スロー・リバー』あざみエージェント・2016年 所収)