はなびらを噛んでまぶたのすきとおる 八上桐子
神戸新聞において元旦から「時実新子没後10年」として「新子を読む 新子へ詠む」という連載記事があったのだが、第一回目は八上桐子さんだった。
八上さんは新子さんの
花びらを噛んでとてつもなく遠い 時実新子
という句をあげた上で、自身の句として
はなびらを噛んでまぶたのすきとおる 八上桐子
という句を詠んだ。
ここでなにかの句に対して、もうひとつの句を〈わたし〉として詠むとはどういうことなのかを考えてみたい。「新子《へ》詠む」ということは八上さんにとってどういうことだったのか。
新子さんの句では「とてつもなく遠い」と対象の遠さが語られていたが、八上さんはその対象をみずからの身体に取り込み、「まぶたのすきとおる」とすることによって自身の身体の遠さとして描いた。
「まぶたのすきとおる」という比喩はいろんな解釈ができると思うが、私はこれを《じぶんの身体が透明化して遠さをもつこと》としてみたい。
新子句の物理的な距離は、自身の身体的な遠さとして描き直されることによって、自身の内面の〈遠さ〉を生んだ。つまり、新子さんの句を〈内面化〉したのだ。
八上さんは記事においてこの新子句を「感覚的な句」と評したが、〈感覚〉として「新子を読」んだ立場から、さらにその〈感覚〉を先鋭化させ、身体のびんかんな「まぶた」に遠近を転移させ「新子へ詠」んだ。
ひらがな表記の「はなびら」というのも、漢字変換される前の、まだ〈感覚・知覚〉段階の、意味になる前の「はなびら」であるように思われる。
まとめよう。
なにかの句に対して、自身の句を詠むということは、まずその句の自分なりの〈読解〉を提出し、その〈読解〉したものを先鋭化させたものを〈詠む〉ということなのではないか。
その意味で、なにかを〈詠む〉ということは〈読む〉ことなのであり、〈読む〉ということはたえざるなにかを〈詠む〉ことなのだ。自身の、〈わたし〉の、文脈のなかで。
私の時実新子像は八上桐子さんらが編んだ新子アンソロジーに多くを学んだ。今でも読み返してはそこから新しい新子のイメージを教えてもらう。そこには、新子さんのなにかが受け継がれながら、なにかがある決意とともに〈切断〉されている。
受け継ぐことには切断が必要とされる逆説。
ひとがなにかを引き継いでいくということは、その受け継ぎと切断のぎりぎりの決意にあるのではないかと、思う。
そしてそのときの切断とは、〈まぶた〉のことなのだ。
「まぶた」は閉じるときに使われるものだ。眼をとじて、まぶたのなかで、はじめてみえてくる世界がある。なにを見るか、ではなくて、まぶたを閉じた上で、なにを見ないことで・見ようとしたのか。決意したのか。
「まぶたのすきとおる」まで眼を閉じること。閉じていてさえ、見えてくるまで。
大事なときにひとは眼をつむる。そして、あえてすれ違いに身を乗りだしていく。
味が出てくるまで、突き詰めるまで、「すれ違」いつづけることを。
シマウマの縞滲むまですれ違う 八上桐子
(「植物園の半券」『川柳ねじまき』2号・2015年12月)
(八上桐子(平松正子・まとめ)「新子を読む 新子へ詠む 時実新子没後10年1」『神戸新聞』2017年1月1日 所収)