2017年1月31日火曜日

フシギな短詩80[R15指定]/柳本々々


  水晶の 玉をよろこびもてあそぶ
  わがこの心
  何の心ぞ     石川啄木


*今回は本文もR15指定です。

城定秀夫監督の『悲しき玩具 信子先生の気まぐれ』という映画がある。婚約者がいながらも夜な夜なテレフォンセックスをし、学校では生徒のひとりをおもちゃとして関係をもつ高校の国語教師・伸子を古川いおりさんが演じるのだが、あらすじの通りR15指定の映画で際どい絡みのシーンがたくさん出てくる。

ここで短詩側からこの映画に着目したい理由は映画の合間合間、とくに濡れ場のシーンで必ず石川啄木の短歌がテロップで引用される点だ。声に出されるわけでもなく、静かに表示される。

たとえばふだんおもちゃにされている生徒が焦らされる性的関係にがまんができなくなり、伸子のなかに挿入しようとするやいなや、掲出歌が引用される。

この映画で大事なのは、伸子が生徒と性的関係をもちながらもかならず挿入以前でとまっており、決してセックスに持ち込まないという点だ。生徒が一線を越えようとすると伸子はいう。「入れたら終わりよ。そういう遊びなんだから」(もしかしたらこの言葉は石川啄木「ローマ字日記」のフィストファックとしての暴力的な挿入の言説に対置されているのかもしれない。Yo wa Onna no Mata ni Te wo irete, tearaku sono Inbu wo kakimawasita.  Simai ni wa go-hon no Yubi wo irete dekiru dake tuyoku osita. ...Tui ni Te wa Tekubi made haitta.

掲出歌はそんな伸子の〈内面〉を表していると言える。この歌の表示はなぜか「玉」の前に不思議な半角アキがあったが、この「玉」は伸子が愛撫し性器を挿入せずにすり合わせる即物的な生徒の睾丸そのものになっている。性的コードで啄木歌は〈解釈〉されているのだ。

しかしここで注意したいのは、そうした性的コードで積極的な〈誤読〉をほどこすことによって、伸子と生徒だけの親密な〈誤読の共同体〉が形作られるということだ。誤読は、親密な共同体をつくる(これは横溝正史の『獄門島』にもみられた構造だ)。

もちろん、この誤読の共同体にさけめはある。伸子は即物的に生徒の「玉」をもてあそびながらも、「水晶の 玉」としての生徒の〈内面〉も「遊び」としてもてあそんでいる。当然、ここには伸子と生徒の非対称的な〈内面〉の懸隔がある。伸子と生徒は身体的に結ばれないが、結ばれないのはむしろ〈内面〉なのだ。

手もつながず、デートもせず、キスもせず、セックスもしない、〈未満〉の、〈おもちゃ〉のような性的関係。

ここにはもしかしたらラカンが言った「男女の間に性関係は存在しない」というテーゼが露骨にあらわれているかもしれない。お互いの幻想のなかでしか、男女は性的に関係しあえない。症候のなかでしか、男女は出会えない。

    あはれかの
  眼鏡の縁をさびしげに
  光らせてゐし
  女教師よ  石川啄木

また、伸子は国語教師の設定なので啄木の歌を生徒との関係の最中に思い浮かべているのは伸子かもしれず、したがってそのつど引用される歌は伸子の〈内面〉そのものかもしれないということもできる。

生徒と性的関係をもつたびに、伸子の内面に啄木歌が引用されるのだとしたら、実は伸子が挿入を拒絶する以前に、〈啄木〉の短歌そのものが生徒との直接的な関係を妨げているとも言える。彼女は啄木の歌なしでは他者と性的コミュニケーションが結べない人間なのだ。しかしその〈結べなさ〉を掩蔽するように補償するのもまた啄木歌である。彼女は、国語教師なのだから。

短歌はその短さによって解釈の複数性を許すために、ときにみずからの内面を補償してくれるものになる。

映画は最終的に「餞別」としての生徒との最後の一線をこえたセックスに向かっていくが、なぜ生徒と最後にセックスをしたときに啄木歌が引用されなかったかがこの映画のポイントになるように思う。それは伸子がもう引用する必要がなくなったからだ。〈いいわけ〉が必要じゃなくなったのだ。挿入したしゅんかん、伸子先生は言う。「先生、かなしい。かなしいよ

関係にいいわけがなくなったときに、伸子は生徒とお別れしなければならない。それ以上いくと、関係がおもちゃ以上に昇格してしまうからだ。伸子は啄木のうたをとおしてではなく、はじめて「かなしい」という素の内面を吐露している。それは、きもちいい、ではなく、かなしい、だった。

もしかしたら「玉」を愛撫していたときに引用された「わがこの心/何の心ぞ」はそれを胸中で引用する伸子じしんにずっと問い返されていたのかもしれない。

だとしたら、短歌にはわたしじしんを補償する以外にもうひとつの大切な役割がある。

それは、短歌は、このわたしに、〈問い返してくる〉ということだ。

短歌を思うおまえは、なにを思っているのか。

と言ってみたいところだが、もしかしたらそんなのは男性的なロマンチシズムかもしれない。

映画のいちばん最後に伸子先生が〈ひとり〉で、たったひとりきりで、引用した歌。

  百年(ももとせ)の 長き眠りの覚めしごと
  あくびしてまし
  思ふことなしに        石川啄木

映画タイトルに「伸子先生の気まぐれ」と書かれていたように、「思ふこと」なんてないのだ。

だから、「わがこの心/何の心ぞ」に対する伸子先生の答えはこうだ。「あくび」のように「思ふことなし」。

伸子先生は伸子先生としてそれまでの関係を「あくび」のように一蹴し、また変わらない日常を生きていくだろう。そしてそれが、たぶん、伸子先生の強さだ。

   *伸子先生は最終的に〈一人〉になってしまったわけですが、次回はそこからいろんなものを捨てた後の〈一人〉の話をしてみようと思います。


          (城定秀夫『悲しき玩具 伸子先生の気まぐれ』クロックワークス・2015年 所収)




※映像とともに音声が出ます。