さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく 望月裕二郎
前回、望月さんの歌とからだの話で終わったのでそのまま続けよう。
私は前回、望月さんの「からだ」は「嘘」をつくことがあると書いたけれど、「嘘」をつくというのは別の言い方をすれば、「からだ」がマジックボックスのような不思議な装置と化することなのだと言うこともできる。
たとえば掲出歌の「さかみちを全速力でかけおりる」から、細田守監督のアニメ映画『時をかける少女』を思い出してみてもいいかもしれない。「さかみちを全速力でかけおり」る爆発的なエネルギーが身体のリミッターを解除し、その解放された身体性が時空を超越させる。
『時をかける少女』にあったのは身体のたががはずれるとともに時空のたががはずれる身体性であり、だからこそひとは「時をかける」ためには「かけ」なければならないのだが、しかしそうして「かけおり」たひとには「幕府をひらく」ことさえできてしまうというマジカルな身体がここにはあらわれている。
前回の望月さんの「玉川上水」の歌もそうだし「べらんめえ」の歌もそうだが、身体(からだ)は戦後に、江戸に、鎌倉時代にいっきに、かけおりていく。
前回も《身体の答え合わせ》として引いた歌だが、
そのむかし(どのむかしだよ)人ひとりに口はひとつときまってたころ 望月裕二郎
この歌をみてわかるとおり、身体の幸福な一致という答え合わせができてしまっていたのは、「むかし」であり、しかもその「むかし」とは「どのむかし」かもわからない浮遊する「むかし」であり、〈いま〉のわたしたちの「からだ」とは関係のないことなのである。それはそんなこと言われれば、「どのむかしだよ」といらつくくらいには望月さんの歌のなかでは非常識な問いかけとみてもいい。身体は答え合わせできないくらい、ズレている。時空とともに。
逆にいえば、時空の改変とともに、たえざる身体のハイブリッドな改造がなされているのが、望月さんの歌における「からだ」である。だから前回の
玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって 望月裕二郎
これは〈身体改造〉の歌とみてもいいのかもしれない。「からだをかってにつか」うとは、身体の改変のことであり、玉川上水水流循環動力生成装置として身体改造された「人」の歌とみてもいいのかもしれない。もちろんここにも「いつまで」という時間への意識がねりこまれている。必ず身体は時間とともにあり、時間とともにある身体は改造されていく。
しかし、玉川上水水流循環動力生成装置と化した身体はどうなってしまうのだろう。それは人造人間というよりは、もはや、〈人造都市〉ではないか。しかし、望月さんの歌ではちゃんと人造都市の歌も用意されている。だから、心配はないのであった。
だらしなく舌をたれてる(牛だろう)(庭だろう)なにが東京都だよ 望月裕二郎
次回は、R15指定。引き続き、「玉」の話です。
(「わたくしはいないいないばあ」『桜前線開架』左右社・2015年 所収)