2017年1月6日金曜日

フシギな短詩73[TVのCM]/柳本々々



 ダメもとで/真夜中、誘って/まさかの集合  TVのCM



前回はキノコの食べ過ぎでこんらんしてしまい、72回のところを誤って73回と記したが、今回がほんとうの73回である。今は、落ち着いている。


せっかく逸脱したので、ぎゃくに、もう少し逸脱を押し進めてみよう。

本における川柳を飛び出して、テレビにおける川柳を考えてみよう。

さいきんあるTVのCMで上記の〈あるある川柳〉が流れた。

以前、テレビにおける川柳の8音について書いたけれど、今回の句も「まよなかさそって」と8音になっている。

それはいいのだけれど、下5が「まさかのしゅうごう」となんと8音になっている。

つまりテレビでひんぱんに流されているCMの川柳の形式は、588になっている。いったい、575とはなんだったのか、とあらためて考えてしまう。

しかし、ここで言いたいのは、575を守ろう、ということではない。そうではなくて、川柳というのは、もしかしたら〈なんでもない〉ものかもしれないということだ。

なにをいっているのか。

さいきん、津久井理一さんの以下の記述を読んで私はけっこう驚いた。引用してみよう。

  俳諧という呼称はそれなりに辿っていけば、中国の六書にまで遡及することができそうだが、川柳という呼称は、柄井川柳という、実在した前句付点者の名が、そのままジャンルの呼称になったという事実があり、それをそのまま肯定すると、川柳というジャンルを規制するものとしてはいかにも弱い。弱いばかりでなく川柳というジャンルの性格を、この言葉はいささかも語っていない。それでは文学上のジャンルという思想の集合性を欠いてしまう。これはどういうことなのであろうか。
  (津久井理一「句をめぐる史的断想」)

短歌には「歌」が入っており、俳句には「句」が入っている。だから、なんとなく呼称がジャンルそのものを規定している。形態規定といってもいいかもしれない。短歌は「歌」でなければならず、俳句は「句」でなければならない。短歌が「句」であったり、俳句が「歌」であったりしては、ダメなのだ。

ところが「川柳」というジャンルは人名である。柄井川柳というひとの名前がジャンル名になったのが川柳である。つまり、言ってみれば、これは〈なにもあらわしていない〉。もしかしたら、それはジミーだったかもしれないし、ナポレオンだったかもしれない。つまりそれは太郎が〈たまたま〉太郎と名付けられたように、〈たまたま〉としての恣意性をあらわしているのだ。

ちまたにあふれている川柳はもはや575であることをほとんど意識していない。どこかで意識しているが、それは容易に逸脱される。だけれども、そのとき、川柳とはこうあるべき、と言えるのかどうか。そもそも、川柳は、〈なんでもない〉ものなのかもしれない。

私は、怒られるだろうか。でも、川柳をいったん0にして、柄井川柳という人名の恣意性にまで還元して、もう一度、川柳とはなんだったのかを考え直してもいいような気もするのだ。

こうあるべき、というときに、そもそもその〈べき〉がどこからきているのか。どこで生まれてしまったのか。胸に手をおいて考えてみるということ。

やっぱり、怒られるだろうか。でも、落ち着いている。

          (コロプラ「白猫協力バトルあるある川柳」・2017年1月3日放送 所収)