こんな手をしてると猫が見せに来る 筒井祥文
祥文さんの句で注意してみたいのが、カテゴリーに対する敏感さだ。「こんな手をしてると猫が見せに来」たわけだが、ここではいくつかのカテゴリーミステイクが起こっている。
「こんな手をしてる」のを見せたいという人間のような猫の意志=発話や、猫の足を「手」とすることによってまるで「猫」が「人」のように語られているのだ。たとえばこの句が、
こんな手をしてると孫が見せに来る
だったらなんの不思議もない。でも「猫」にすると、とたんに、不思議さが、でる。それはカテゴリーをいれかえたからだ。
しかし、そもそも、カテゴリーとはなんなのか。
卵かもしれぬ古寺かもしれぬ 筒井祥文
《これ》は《これ》だと思っているうちはカテゴリーの誤りは起きないが、《これ》は《あれ》だとも思うようになったらカテゴリーの誤りは起きる。
《このカテゴリー》は《このカテゴリー》でなければならない、という絶対認識がなければ、カテゴリーミステイクはひんぱんに起こるのだ。《これ》が《あれ》だとときどき思うようになっては、カテゴリーは食い違うから。
そしてこのカテゴリーミステイクこそ、現代川柳の認識の基本的視座になっているのではないかと思うのだ。その意味で、現代川柳の基本的視座は、《こんな手をしてると猫が見せに来る》である。
世界にあらかじめ据え置かれたカテゴリーを攪乱/撤廃する視座。それは絶対的な〈執着〉からの解放でもある。
時実新子さんの回のときに
入っています入っていますこの世です 時実新子
という句を取り上げたのだが、このとき「この世」の〈たまたま性〉に注目してみた。トイレの個室のように〈たまたま〉「この世」に「入ってい」ること。
それは、「この世」への絶対的な執着から解き放たれたひとつの〈達観〉である。
で、この〈達観〉というもの、区別や差別や分別からの解放、というのが現代川柳にはあるのではないかとある時から川柳を読みながら考えていた。
たとえば。
縊死の木か猫かしばらくわからない 石部明
この句では「縊死の木」と「猫」を区別/差別/分別する〈認識〉がうしなわれている。「しばらく」の間だけれど、その「しばらく」の間、語り手は区別も差別も分別もない世界にいた。だから「しばらくわからな」かった。
「縊死の木」と「猫」が同一視される世界。こうした差別がうしなわれる世界観というのは、実はわたしたちは古くから〈なじみ〉があるものだ。〈仏への視座〉である。
歌人の西川和栄さんが「仏法を生きる」でこんな話をされている。
お婆ちゃんが、囲炉裏で火を焚いておって、その煙がスーッと上がっていくのを見て、「ほ~ら、見まし見まし、あの煙が、ほら、お日さんにさぁっといくあの煙の中の埃が見えるじゃろう、見えるじゃろう。あの埃の一つひとつが仏様やぞ」と言うたわけやな。それで十代の私は、ははぁ、埃までも仏さんなんか。そうすると、私は、埃を埃と思わんと、仏さんを吸うとるんやな。
(西川和栄「仏法を生きる」『宗教の時間』NHKラジオ第2、2014年4月6日放送)
仏教では苦しみの根本原因が「執着」にあるとされている。だからこそ、〈これ〉が絶対に〈これ〉でなければならないという考え方は採用されない。それは、執着になるからだ。仏さまは「埃」であることもあれば、塵であることもあるし、棒きれであることもあるし、ビルであることもあるし、なにものでもないこともあるし、あなたであることもあるし、わたしであることもある。すべては仏であり、すべては仏でないのだ。
こうした仏の観点を経由してみると、石部明さんの「縊死の木か猫かしばらくわからない」句も、そんなに不思議なことでもないと思うようになる。この世界の事物、すべてが仏である可能性なら、「わからない」こともあるからだ。
だから、「埃までも仏さん」であるならば、この世界、どんなカテゴリーミステイクが起きようとも、なんの不思議もないのだ。
現代川柳には不思議な句が多いが、実はこの世界には不思議なことなどなにもない。
不思議は、ない。
めっそうもございませんが咲いている 筒井祥文
(「信号灯の余技」『セレクション柳人9 筒井祥文集』邑書林・2006年 所収)