2017年2月14日火曜日

フシギな短詩84[鳥居]/柳本々々


  町角のポストのなかに隣り合うかなしい手紙やさしい手紙  鳥居

この歌のなかでは「かなしい手紙」と「やさしい手紙」が「隣り合う」ことによって、「かなしさ」だけでも「やさしさ」だけでもない不思議な空間が「ポストのなか」につくられている。

それが「かなしみ」と「やさしさ」が「隣り合」ってはじめて生まれた空間だ。

なにが、なにと隣り合うことによって、なに以外が、生まれたのか。

鳥居さんの歌の〈まなざし〉はそのことにとても敏感なのではないかと、思う。

  駅前で眠る老人すぐ横にマクドナルドの温かいごみ  鳥居

社会から投げ出されたように「駅前で眠る老人」と、社会から廃棄されたばかりの「マクドナルドの温かいごみ」。どちらも社会の〈外〉に排斥されながらも、それでも社会のなかに、わたしたちの視界のなかにきちんと存在するものだ。

では、この歌の〈まなざし〉はどこにあるのか。それは「」という格助詞のたった一音にあるように思う。

「に」という助詞をいれ、「老人」と「温かいごみ」を隣り合わせることにより、「老人」にも「温かいごみ」にも決着=結着がつかない空間を描く。この歌ではわたしたちはどちらにも行き着くことは、できない。ただ「に」だけが、場所を描いている。「に」だけが、どこにもゆかない場所を、指し示している。

場所は、場所にだけあるものではない。わたしたちの身体も、じつは、場所である。場所と場所が隣り合って身体ができている。

  冷房をいちばん強くかけ母の体はすでに死体へ移る  鳥居

  眠るとは死ぬことだから心臓を押さえて白い薬飲み干す  〃


「体」と「死体」の隣り合った様相。「眠る」と「死ぬ」が隣接している状況。これらの移行する隣り合った〈現場〉を身体は引き受けている。身体とはもともとばらばらなはずなのに、いつでもばらばらになるはずなのに、なぜかわたしたちは身体を〈ひとつ〉だと思っている。「心臓を押さえて」必死にその〈ひとつ〉を確認し、誤認しようとする。でもその〈ひとつ〉において、「眠る」は「死ぬ」に変位し、「体」は「死体」に移行する。

隣り合う状況を描くことによって、その決着のつかなさを描く。それが鳥居さんの短歌のひとつの様相ではないだろうか。

鳥居さんの短歌は境涯と結びつけられがちだけれども、でも、容易に〈答え合わせ〉ができない状況を〈そのまま〉描いているのも鳥居さんの短歌なのではないかと、おもう。

答え合わせが、できないので、問いかけつづける。隣り合うって、でも、そういうことだと、おもうのだ。わたしがなんかいっても、「なんで」ときいてくるひとがいる。なんで生きるの。なんで死ぬの。って。

  あおぞらが、妙に、乾いて、紫陽花が、路に、あざやか なんで死んだの  鳥居

          (「NEXT 未来のために「響き合う歌~歌人・鳥居と若者たち」NHK、2017年2月7日・放送)