2017年2月24日金曜日

フシギな短詩87[富野由悠季]/柳本々々


  悲しいけどこれ戦争なのよね  富野由悠季


ガンダムをつくったアニメ監督・富野由悠季さんには独特な言い回しからなる「富野ゼリフ(富野節)」というものがある。

たとえば映画『劇場版 機動戦士ガンダムⅢめぐりあい宇宙(そら)編』のなかでジオン公国軍の試作型モビルアーマー、ビグ・ザムに特攻する前につぶやいたスレッガー・ロウ中尉のセリフ「悲しいけどこれ戦争なのよね」。有名なセリフだが、これを富野節を抜いて一般的な言い回しにするならば、

  悲しいかもしれないが、これが戦争をするということなんだ。

になるだろう。中性的な文体だし言い回しにクセもないが、どこか〈ひとごと〉のようなセリフである。

これが富野節をとおすと、

  悲しいけどこれ戦争なのよね

になる。注目したいのは、〈短さ〉である。助詞が切り詰められながらも語末に「よね」とみずからの認識を再確認する終助詞を置くことで切り詰められたセリフがぐっと生きている。「悲しいけどこれ戦争」と極端に切り詰められながらも最後の「なのよね」と冗長にさせることでスレッガー・ロウ中尉がそのセリフを個人的に〈どう〉生きようとしているかが一瞬でわかる。

この独特なクセをもつ富野節はどのようにして生まれたのだろう。

やはり富野由悠季さんの作品『∀(ターンエー)ガンダム』のプロデューサーを務めたサンライズの河口佳高さんは『劇場版∀ガンダムⅡ 月光蝶』(2002年)の映画パンフレットにおける「スタッフ座談会」において次のような興味深いことを述べている。

  今回僕が、わかったことは、 「富野ゼリフ」はなぜ生まれるのかっていうこと。あれは、尺に合わせてセリフをつくるからなんだよね。口パクに合わせるために、セリフを全部言わせないで短くして、エッセンスとリズムのセリフ構成にしちゃう。きっとファースト・ガンダムの劇場版をやったあたりから、その傾向が強くなったんじゃないかな。アフレコでセリフを直す様子を見てそれは思った。
  (河口佳高「スタッフ座談会 いかにして『∀』映画は生まれたか」『「劇場版∀ガンダムⅡ 月光蝶」パンフレット』、2002年)

アニメーションの画としての「尺」=「口パク」に合わせるために「セリフ」=言葉を「短く」して「リズム」を与えること。これは31音、或いは、17音の定型にことばを「短く」して「リズム」を与える《定型詩の思考》に近いではないか。

もし定型詩にクセのある文体が生まれるのであれば、富野ゼリフがそうであったように、定型と言葉との照応関係によって生まれるのではないか。そうした枠組みとことばの相互作用のありかたが富野節にはあるように思うのだ。

すでに決まっている形式(アニメーション/定型)があって、《それでもしゃべらなければならない》ときにどのように不自然でなく、しかし、切り詰めていくなかで《文体》をつくることができるのか。17音、31音を与えられたわたしたちは、2音や8音だけでことばをやめてしまうことはできないから。 

定型詩は定型がある以上は、しゃべらなくてはならない。

ここですこし具体的に短歌をみてみよう。

  春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令狀  塚本邦雄

よく引用される有名な短歌だが、わたしはずっとこの短歌の「あっ」が気になっていた。なんだろう、この「あっ」は、と。なんなんだ。

もちろんこの「あっ」を意味内容から考えることもできる。この「あっ」という感動詞によって「召集令状」に対する語り手の驚きや緊張感や現実のてざわりがあらわされる。「春の夜の夢」のあいまいな〈きぶん〉は、「あっ」によって打ち砕かれる。

でもこの「あっ」を形式的に考えてみたらどうだろう。「あっあかねさす」は下の句の七七における7音だが、もしこの短歌に「あっ」がなければ、7音の箇所が「あかねさす」で5音になってしまう。そうするとこの「あっ」は定型が発話した「あっ」とは言えないだろうか。もし定型がなければ「あかねさす召集令狀」で終わったかもしれないものが定型が介在することによって「あっ」が召喚された。

定型が話しはじめてしまった「あっ」。そこにわたしは定型詩の非生命的な身体性やぶきみさが即物的なてざわりがあるように思うのだ。そして画によってことばに〈生命のクセ〉が生まれるアニメーションにも。

批評家の福嶋亮大さんがこんなことを述べている。

  富野由悠季は、生身の人間どうしの闘いではなくて、メディア化された人間とメディア化された人間の闘いを演出し、戦争を反復した。
  (福嶋亮大『神話が考える』青土社、2010年)

定型というメディアを介してメディア化された発話形式をもつ歌人/俳人/柳人もまた「メディア化された人間とメディア化された人間の闘い」をひきうけるものたちといえるのではないだろうか。「あっ」に取り憑かれたものたちとして。


          (『劇場版 機動戦士ガンダムⅢめぐりあい宇宙(そら)編』1982年 所収)