2017年2月21日火曜日

フシギな短詩86[永井一郎]/柳本々々


  ナウシカ役の島本須美さんの「うれしいの」を聞いたとき、この作品も島本さんも成功すると確信しました。  永井一郎

『サザエさん』の波平の声でも有名だった俳優・声優の永井一郎さんが書いた本に『朗読のススメ』がある。そのなかで永井さんは役をつかむポイントとして、そのキャラクターのキャラクター性をよくあらわす一言を見抜く大切さを書いている。

たとえば永井さんは宮崎駿の映画『風の谷のナウシカ』でナウシカの忠臣であるミトの役をつとめたがそのミトに対して永井さんは次のような役作りを行っていた。

  私にはナウシカしかありませんでした。どんなセリフもその内容は「ナウシカを守り抜く」ということでした。ミトにとっても私にとっても「ひめさまー」がいちばん重要なセリフでした。「ひめさまー」だけがしっかり言えれば、あとは自然についてくると信じました。いま、ミトについて、「ひめさまー」しか思い出せないのはそのせいでしょう。こうした役づくりは、ハムレットであろうと、スカパンであろうと同じだと思います。ミトを演じるについて、「ひめさまー」だけに全精力を使ったと、いま、しみじみ思い出しています。
   (永井一郎『朗読のススメ』新潮文庫、2009年)

永井さんにとってミトのキャラクター性を決定的にあらわす一言は「ひめさまー」だった。このナウシカを想う一言がミトのすべてを決定した。

永井さんにとってキャラクターをつかむとはこのようにキャラクターの発する決定的・象徴的なことばをキャッチすることだった。

そしてそのキャッチされたことばに、永井一郎の音律があてられて、《声》になるのだ。

声といえば、こんな川柳がある。

  絞っても絞っても声は大きい  稲垣康江 
   (『おかじょうき』2016年9月)

以前、誌上大会で選者をさせてもらったときに私が特選に選ばせてもらった句なのだが、最初みたときに、不思議な句だなと思った。

題は「絞」だった。

〈声を振り絞る〉という言い方があるように、声はしぼりあげると、大きくなっていく。ところがこの句では「絞っても絞っても声は大きい」と語られているので、声を大きくしても大きくしても、《まだ》、声は「大きい」かのように感じられる。

もちろん、「絞る」というのがテレビの音を「絞る」のように小さくするでもかまわない。その場合、声を小さくしても小さくしてもそれでも「声」がきこえてしまうというやはり不思議な声の様相があらわれている。

わたしが選をしたその頃、ある大きな事件が起きて、たくさんの声がいちどに消えた。声は、消える。ある日。思いがけなく。誰も残せないうちに。消えたように、みえる。しかし一方で、声は、のこりつづける。声は、消えない。

この稲垣さんの句の「声」は、「絞る」という複雑なアクションがほどこされている。抑圧を受けている「声」なのかもしれない。しかし、声は、きえない。小手先の加工技術が結局はかなわない「声」の深さ。ひとりの人間が生まれたときの、死にゆくときの句だと思った。

わたしは、その句に、決めた。

この句が、いいたいことは、たぶん、たったひとつのことだ。

声は消えない》ということ。どんなに消そうとしても、いや消そうとすればするほど、声は大きくなっていくこと。

となるとこの句で語られているのは、大小で計れるような声ではない。量、ではない。《ある》としか言えないような「声」のあり方である。それは大小が問題にならない。ただ《ある》ことに気づいたひとだけがきこえてしまった声。そして聞こえてしまったらもう消えない声。声はあるなしではないのだ。《ある》のだ。

  この作品(『風の谷のナウシカ』)のいちばん重要なセリフは、ナウシカの「うれしいの」というたった五文字のセリフです。人類の愚かさのために、腐って滅びるしかない地球。そんななかでナウシカは、地球が自浄作用で復活しようとしていることを発見します。ナウシカは腐った地球の地下の、美しい砂の上に倒れ伏します。ペジテのアスベルという少年がナウシカに尋ねます。
  「泣いているの?」
  「うん、うれしいの」
  ナウシカは小さくつぶやきます。作品でいちばん重要な言葉を発見することはとても大切なことですが、さらにきちんと言えなければなりません。ナウシカ役の島本須美さんの「うれしいの」を聞いたとき、この作品も島本さんも成功すると確信しました。
  (永井一郎、前掲)

永井さんは『風の谷のナウシカ』のなかに、ナウシカの「うれしいの」の《声》や、ミトの「ひめさまー」の《声》を発見した。その《声》をキャッチした。その《声》をつかんだとき、『風の谷のナウシカ』に埋め込まれた《声(ヴォイス)》に気がついた。

実はわたしは、声優のひとたちが声を役にあてる作業と、定型に言葉をあてていく作業は、どこか通じ合っているようにも思うのだ。アニメのキャラクターの口パクの動きや秒数に合わせて台詞をおさめていくこと、それは定型に応じてことばを変化させていくことに似ている。

しかしそれらのおさめられた言葉は、尺や音数にあわせた機械的な言葉の連なりであってはならない。ひとつの声(ヴォイス)としてきこえるものでなくてはならないのだ。自然な、しかしそれでいて、尺や定型にあわせなければ出てこなかったような奇妙な言葉の可能性をも同時にあわせもって。

口パクの尺や定型の音数にことばをあてていきながらも、その尺や音数を自然に忘却できるくらいに一体化したときにそこには〈声〉が生まれる。

声、ってあらためてなんなんだろう。声をいしきすること。

意味ではなく、声として、わたしの、あなたの目の前にいる相手と向き合ってみること。そのとき、声からみられたわたしやあなたはなにを思い、なにを思われ、なにが通じ合い、すれちがうのか。

声、とはなにか。

ブラックジャックやムーミンパパの声でも有名な大塚明夫さんは、こんなふうに言っている。

声とは、刺すものである、と。

量じゃないんだ。刺さるか、刺さらないか、なんだ、と。

いちど刺さった声は、きえない。

  大切なことは、言葉を相手に届けること。状況に応じて「刺す」ことです。
   (大塚明夫『声優魂』星海社新書、2015年)


          (『朗読のススメ』新潮文庫・2009年 所収)