脳のなかがもうもうと霧がたちこめたようになってぼんやりと座ったまま眠るでもなく覚めているでもない。自分で言ったわけでもなくひとが言ったわけでもなく、ただ、「かえるが飛び込んで水の音がした」が耳に響いてくる。それは、もう、俳句だった。 正岡子規(拙訳:柳本々々)
「明治という時代の新しい活字メディアである新聞と雑誌を舞台に、短詩型文学としての俳句と短歌を革新する運動を展開した」ひとに正岡子規がいる。
少し前に刊行された日本近代文学研究者の小森陽一さんの『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書、2016年)には、独自の「まったく新しい表現方法」として芭蕉の俳句をとらえた子規が記述されている。子規は芭蕉を「一宗の開祖」として敬う崇拝者からではなく、「一文学者」としての表現者として見ようとした。1893(明治26)年のことだ。
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
芭蕉のこの句に芭蕉独自の「発明」と「創開」があると子規は言う。子規はこの句の語り手の〈立場〉の独特な感じに驚く。どういう感じに驚くのかというと、
脳中濛々(もうもう)大霧の起りたらんがごとき心地に芭蕉はただ惘然(もうぜん)として坐(すわ)りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。……自らつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。
(子規「芭蕉雑談」『日本』)
脳のなかがもうもうと霧がたちこめたようになってぼんやりと座ったまま眠るでもなく覚めているでもない。自分で言ったわけでもなくひとが言ったわけでもなく、ただ、「かえるが飛び込んで水の音がした」が耳に響いてくる。それは、もう、俳句だった。
これではまるで〈ゾンビ〉ではないか。
子規によってここに描写されている芭蕉はただただ感覚受容器としてゾンビのように受信機械と化した芭蕉の異様なありようだ。しかしこの視点は芭蕉をただただ崇拝している〈崇拝者〉には見いだせない視点だった。
小森さんはこの芭蕉を「無意識と意識の間での宙吊り状態」と解説する。「自分の記憶に蓄積されたあらゆる『言語』と『事物』との関係が全て消去され」「自己の内面なるものをことごとく失ってしまった」状態。
つまりこの瞬間、これまで言葉を操る生物として蓄積してきた、「言語」と「事物」を結びつけてきた経験の総体を、手放してしまったことになるのである。……
「古池の句は実に其ありのままを詠ぜり。否ありのままが句となりたるならん」
子規の分析は身体論的かつ哲学的に先鋭化していく。「ありのまま」の「知覚神経の報告」を、受け入れることによって、それまでとはまったく異なった言語的表現を生み出すことが可能になるのだ。
(小森陽一「俳句と和歌の革新へ」『子規と漱石』集英社新書、2016年)
「経験の総体を、手放してしまった」ときに生まれるのは、「一切の『主観的思想』や『形体的運動』を排した」「ありのまま」である。この神経身体としてのハードウェアによるゾンビ的《ありのまま》はやがて「写生」理論へと接続されていくだろう。
こうした子規が見いだした芭蕉になぜ今スポットをあえてあててみようと思ったかというと、この「無意識と意識の間での宙吊り状態」というのは百年後の現代俳句にも引き継がれているのではないかと思うからだ。
たとえば最近刊行された句集に田島健一さんの『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017年)がある。この句集を読んでいてまず気づかされるのが語り手の特異(ふうがわり)な位置性である。
友達でふさがっている祭りかな 田島健一
湯ざめしていると出てゆく糸がある 〃
着ぶくれて遊具にひっかかっている 〃
ここには不思議な主体性の喪失がある。主体性の喪失とはそう言ってよければ、ゾンビを主語にしても違和感がないことだ。たとえば、
ゾンビ「友達でふさがっている祭りかな」
ゾンビ「湯ざめしていると出てゆく糸がある」
ゾンビ「着ぶくれて遊具にひっかかっている」
しかしなぜ主体性の喪失を感じてしまうのだろう。それは、〈意識〉よりも〈身体〉が先に出てしまっているせいだ。
祭りは身体でふさがり、湯ざめすれば身体から糸が出てしまい、遊ぼうと思うと身体がひっかかる。そしてその《身体の先走り》を後付けのように《意識》することが田島さんの俳句になっているのだ。ただしその状態をこんなふうに子規風に言い換えることもできる。「ありのまま」を受容しているだけだと。
無駄に勇気を出してこんなふうに言ってみたい。俳句とは、《先走りしてしまったものを・後付けした意識》なのではないか。
そう言えば田島さんの句集の帯文にはこんなふうに書かれていた。
あらゆる人のはじまりであることの困難さの代わりに。
そう、この句集は「人のはじまりであること」に《すでに・出遅れ》ている。だからこの句集では、動物たちがにぎやかだ。身体がつねに先走っている動物たちが(〈ゾンビ〉とは〈動(く)物〉である)。
猫あつまる不思議な婚姻しずかな滝 田島健一
鶴国家ふしぎな鶴が攻めてくる 〃
せり出してくる日本画に立つ狐 〃
そうなのだ。「あらゆる人のはじまりであることの困難さの代わりに」この句集では〈動物のはじまり〉が描かれているのだ。
だから「結婚」すれば「猫」が集まってくる。それは社会的属性としての「人」になるのではなく、なぜか、「猫」の方に近づいていく行為だったから。なんでかはわからない。だから「不思議な」と語り手も言っている。結婚=結合は、人と人との間に立つものではなく、人と動物の間に立つものになってしまう。
そして、最終的にこの句集ではじっさい、語り手は「鳥」になってしまう。
右眼から鳥になる願わくば鶴 田島健一
右眼から鳥になっていく語り手。「願」ってはいる。もし鳥になるなら「鶴」になりたいと。なれるかどうかはわからない。なれないような気もする。でも問題はそこじゃない。問題は、「あらゆる人のはじまりであること」は「困難」だったが、この句集では「あらゆる動物のはじまりであること」は「容易」だったのだ。芭蕉が意識と無意識の間の宙吊りの仮死状態のゾンビのような〈ぼんやり〉でも、かえるの音を聞いたように。
蝉時雨いるような気がすればいる 田島健一
(「俳句と和歌の革新へ」『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』集英社新書・2016年 所収)