あやふやなものがあって確かめたらあやふやだった 大川博幸
石寒太さんが『俳句はじめの一歩』という本のなかでこんなことを書かれている。
私の先生の加藤楸邨も、「俳句はもののいえない文学」と、はっきりいっています。
(石寒太『俳句はじめの一歩』二見レインボー文庫、2015年)
俳句は〈もののいえない文学〉。これはメッセージ性を回避する俳句のことを思うとよくわかる。自己主張したいひとやなにかをどうしてもいいたいひとは俳句に向いていない(かもしれない)。たとえば俳句はよく〈挨拶の文芸〉だと言われるけれど、これも〈ものをいわないこと〉=挨拶、に通じている。
じゃあ、俳句が〈もののいえない文学〉だとしたら、川柳は、どうなのだろう。わたしは、今回の大川さんの句を引きながらこんなふうな提案をしてみたい。川柳は〈もののみえない文学〉じゃないかと。
たとえば「あやふやなもの」をまず語り手は確認したわけだが、すでにその時点で語り手は〈確認〉に敗退している。なぜならはじめから「あやふやなもの」として認識しそれでよしとしているからだ。
その「あやふやなもの」を語り手は「確かめ」にいったが「確かめ」に行って「あやふやだった」と二度目の確認の敗退を行う。しかしそうした認識の敗退を〈そのまま〉描いたら川柳になってしまった。
ここでわたしが考えてみたいのは川柳とはこうした「あやふや」を「あやふや」と《わざわざ》確認する作業なのではないかということだ。「あやふや」の内実は問題ではなく、「あやふや」をつまびらかにすることも問題ではない。問題は、「あやふや」をわざわざ確かめながらも「あやふや」にしておくことなのである。それが川柳の要である。
大川さんのこのあやふや句が入った連作はすべて「あやふや」を「あやふや」に留めようとする力学のもと描かれている。
歩き出してから歩く方法を 大川博幸
目を閉じる何も見えなくなってから 〃
犬の声がする犬がいるのかもしれない 〃
こうした「歩く」と「歩く」、「閉じる」と「閉じる」、「犬」と「犬」という反復のなかで〈現実〉がねじれていく。問題は、語り手が〈素(す)〉でこれを語っていくことにある。語り手はこのねじれていく現実にすこしも驚いていない。
こうした〈雰囲気〉を、魔術的リアリズムと言っていいかもしれない。「あやふや」を驚きなくためらいなく「あやふや」として受け入れるのはマジック・リアリズムの醍醐味である。
マジック・リアリズムはラテンアメリカ文学の批評用語から来ている。
マジック・リアリズムを南米の文学運動に限定すればだが、そこにあるのは、幻想への憧れや現実への不信、繊細な「ためらい」などではなく、ただ野太い、原「現実」である。
(井辻朱美「マルシェとしての『かばん』」『ユリイカ』2016年8月号)
井辻さんのわかりやすい定義をひけば、マジック・リアリズムとは、《野太い、原「現実」》に出会うことだ。そしてそれがどんな剥き出しの現実であろうが、まったくおどろかず、受け入れてしまうことだ(たとえばガルシア=マルケスの『百年の孤独』も川上弘美の『神様』もマジック・リアリズムに基づいた作品だと言える)。
そしてそうした意味では大川さんの連作は、マジック・リアリズムのふんいきをただよわせていると言える。語り手はどんなにねじれた現実に対しても少しもためらってもいないのだから。素、なのだから。
川柳がもし〈もののみえない文学〉だとしたら、川柳はその〈みえない〉ことを逆手にとって言葉の微妙なひだにわけいっていくだろう。たとえば、
ギザギザが来るからぎざぎざは待つわ 広瀬ちえみ
(「ギザギザ(ぎざぎざ)」『川柳杜人』253号、2017年3月)
(「ギザギザ(ぎざぎざ)」『川柳杜人』253号、2017年3月)
ここでは「ギザギザ」と「ぎざぎざ」の微妙な差異に「待つ」ことができるだけの〈時間〉が生まれている。「ギザギザ」も「ぎざぎざ」も目にはみえないものだが、しかし、広瀬さんの句はそこになんらかの〈ひだ〉をみてしまっている。
〈もののみえない文学〉とは、同時に、〈ことのみえる文学〉でもあった。
だから現代川柳には、あやふや愛好者たちにはぴったりの文学だと言えよう。あやふやなコトガラの微妙すぎるひだひだの部分を得意とするのが現代川柳だと言える。
あやふやにもひだひだがあるんだっていうことは、みーんな、現代川柳が教えてくれた。
芽が出たので種を蒔かねばならない 大川博幸
(「あやふや」『川柳の仲間 旬』210号、2017年3月号 所収)