階段で待っているから落ちて来て 竹井紫乙
竹井紫乙さんの川柳のなかでは、誰かと、誰でもいいのだけれど、誰かとつながることは〈身体感覚〉そのものではないかと思うことがある。
たとえば掲句。「待っているから落ちて来て」という。「待って」くれてはいる。しかし「落ち」なければあなたに会えない。「階段」だから「落ち」たら痛いだろう。
つまり、あなたに会うためにはわたしは傷つかなければならない。落ちなければならないし、身体に傷をつけないといけない。傷つくと、会える。
だからこんなふうに言い換えてみるのも面白いかもしれない。紫乙さんの川柳のなかでは、いつでも〈会う〉ためには〈身体が人質になる〉必要があるのだと。
再会は味付け海苔の味がした 竹井紫乙
「再会」はうれしいのでもかなしいでもない。「味」なのである。身体感覚だ。ここでも「身体」が人質として提供された。味覚として。舌を刺激し、かすかな傷から、「味付け海苔の味」が生まれる。
だとしたら逆にこの句集で身体が人質にならない句はどうなっているのだろう。つまり、身体がぶらぶらしているような句は。
悪い事する両腕は手ぶらです 竹井紫乙
「手ぶら」の「両腕」は「悪い事」をするためにある。「悪い事」の解釈はいろいろできると思うが、〈再会〉や〈出会い〉におもむかず、自由な身体が「悪」に回収されていってしまったのはたしかなことだ。身体が人質にならない場合、「悪い事」が待っている。この世界ではフリーで〈からっぽ〉な身体はひとに結びつかず、エゴに結ばれていく。たとえば、
夜遊ぶ底なし沼にいるみたい 竹井紫乙
癖になる空っぽになる遊び方 〃
透明な扉 あなたは罪深い 〃
紫乙さんの川柳のなかにおいては〈身体の傷〉こそが〈出会いの場〉となる。それは別の言い方をすれば、〈傷〉は他者と結びついてはじめて〈傷〉そのものになるということだ。それが〈身体の人質〉ということでもある。
音も無く転ぶ祭りの真ん中で 竹井紫乙
だからあなたは〈傷〉つく瞬間はきちんと〈傷〉つかなければならない。転ぶしゅんかんは、ちゃんと声を上げて音を立てて転ばないといけない。そうじゃないと、だれも、あなたを気づいてくれなしい、待ってもくれないから。
痛い、は、つながること。
体から色んな枝が出て痛い 竹井紫乙
(「高天」『白百合亭日常』あざみエージェント・2015年 所収)