君もあなたもみな草を見て秋を見て胸に運動場を宿した 堂園昌彦
堂園さんの短歌で少し考えてみたいのが、語りの速度のスローな感覚である。どうして堂園さんの短歌を読むと語りの速度がゆるやかに、遅くなっていくのを感じるんだろう。
別のことばでこんなふうに言ってみてもいい。どうして語り手は一首のなかで〈意図的〉にここまで情報量をぎっしり詰め込もうとするのだろう。
掲出歌だけでなく次のような例もあげてみよう。
君がきれいな唾を吐き出し炎天の下に左の手首が痛む 堂園昌彦
きみは海に僕は森へと出かけてはほこりまみれのバスを見に行く 〃
誰か何かを言い出す前の沈黙の広場の深い深い微笑み 〃
声に出して読んでみてほしい。どこかつかえるようなゆっくりな感じにならならいだろうか。
なぜそんなことが起こるのか。
わたしが思ったのは助詞の多さである。たとえば掲出歌は「も」「も」「を」「て」「を」「て」「に」「を」と助詞がたたみかけられて構成されている。ちょっと考えてみよう。〈助動詞〉ではなく〈助詞〉が多いというのはどういうことなのかを。それは、動詞・形容詞よりも名詞が必然的に多くなるということだ。だから、情報量の多さを感じるのはそのためである。名詞が多いのだ。
しかしこれは先ほども述べたように〈意図的〉に思える。つまりそういった語り口を採用することで、独自の〈時間〉を生み出しているようにわたしは思うのだ。それはこの歌集のタイトルが『やがて秋茄子へと到る』という「やがて」という〈時間のプロセス〉を喚起させていることからもわかる。
たとえばこれらの歌の〈時間〉が大量の助詞と情報によりスローになっていくときに、わたしたちに起こる意味作用はなんだろう。それは一首のなかに〈滞在〉する時間が長くなるということだ。だから掲出歌の結語の「胸に」「宿した」はその長い時間のぶん、強く〈胸に宿す〉ことになるし、「左の手首が痛む」感覚や「ほこりまみれのバスを見に行く」道程も「深い深い微笑み」の深さも強度のあるものになっていく。強度とは、共有された時間によってつくられるものでもあるから。
歌集タイトルにならっていえば、「秋茄子」への重みが出るのは「やがて秋茄子へと到る」という「やがて」「到る」時間のプロセスがあるからである。その時間の重みを引き受けて「秋茄子」の重量が出てくる。
助辞(助詞の使い方)そのものが、時間の創生につながっていくこと。そして生み出された時間そのものが言葉の強度そのものになっていく。そのことをわたしは堂園さんの歌集を読んで〈実感〉したように思う。
わたしたちは〈ゆっくり〉をつくらなければいけない。〈ゆっくり〉とは、創造されるものなのだ。
ゆっくりと両手で裂いていく紙のそこに書かれている春の歌 堂園昌彦
(「季節と歌たち」『やがて秋茄子へと到る』港の人・2013年 所収)