うんこにも羽が生えたらいいのに。 『うんこ漢字ドリル』
文響社から先日刊行された革命的な漢字ドリルに『うんこ漢字ドリル』がある。
なんとすべての書き取りの例文が〈うんこ〉をめぐって書かれているのだ。たとえば、
出席番号順にうんこをてい出する
「月刊うんこ」の四月号で、ぼくのうんこがしょうかいされている
うんこを表す記号を考えました
(『日本一楽しい漢字ドリル うんこ漢字ドリル 小学3年生』文響社、2017年)
たしかに、これは、たのしい。では、なにがたのしいのかといえば、これは〈読み物〉としてたのしい。なぜ〈読み物〉としてたのしいかと言えば、メタファー(隠喩)の原理に基づいた例文ではなく、メトニミー(換喩)の原理に基づいた例文が用意されてしまったからだ。わたしは、今回のこのうんこ漢字ドリルを、詩と呼びたいとおもう。
メタファー漢字ドリルとメトニミー漢字ドリルの違いとはなんだろう。それは〈言いたいこと〉ですべてを埋めていくか(メタファー)、〈言いたいこともないこと〉ですべてを埋めていくか(メトニミー)の違いである。
ちょっと確認すると、メタファーというのはたとえばこんな比喩の技法だ。
わたしのほっぺは林檎だ。
メタファーというのは、イコールの原理の比喩だから、「ほっぺ=赤い」ということが〈言いたい〉ときにメタファーを使う。「白雪姫」は肌が雪のように白いことが〈言いたい〉から「白雪姫」だ。「白雪姫」は隠喩のひとなのである。
だからメタファー漢字ドリルというのは〈言いたいこと〉があるので、たとえば先ほどのうんこ例文をメタフォリカルに書き直せば、
出席番号順に宿題をてい出する
ということになる。これはどんなメタファーが働いているのかというと、「宿題=てい出されるもの」という善の道徳的メタファーが適用されている。メタファーというのはこう考えると〈常識的〉なものになりやすい。それはなぜ常識的なものになりやすいかといえば、〈似ていないとだめ〉だからだ。隠喩というのは、隠れた似たもの、である。
ところがメトニミーというのは〈似ている原理〉ではなく〈換喩〉という文字どおり〈交換の原理〉に基づいている。だから、この例文の「宿題」を〈名詞〉というカテゴリーのもとに名詞でありさえすればどんなものにだって〈交換〉してしまえることができる。たとえば、
出席番号順に揚げシューマイをてい出する
とか
出席番号順に絶望をてい出する
とか
出席番号順に内閣府特命担当大臣巨大不明生物防災巨大不明生物統合対策本部副部長をてい出する
とか、それは〈名詞〉だったらどんなものをここに埋め込んでもいい。そうすることで、ふだんの類似思考から解き放たれた〈常識外〉の文が生まれる。だから、もちろん、〈うんこ〉でもいい。
出席番号順にうんこをてい出する
『うんこ漢字ドリル』は、世界がうんこに似ているメタフォリカルな思考から生まれているのではなく、世界をうんこに変換していくというメトニミカルな思考で詩がうまれることを発見している。すべての名詞変換は〈うんこ〉で行われる。
このメトニミー思考である〈変換の原理〉というのは、実は現代川柳にもよくみられることだ。現代川柳はメタファーの原理で動いているというよりは、実はメトニミーの原理で機能している(ちなみに現代川柳作家の小池正博さんが連句=メトニミー思考のひとだというのは書いたことがある。拙稿「あとがきの冒険 恋と小池正博と赤ずきん」『週刊俳句』)。
たとえばかつてこのフシギな短詩でとりあげた句をみてみよう。
たとえばこの句をメタフォリカルに、
こんな手をしてると孫が見せに来る
や
夫と妻になって殴りあう
という〈なにかを物語りたい〉句にするのはありだし、実際そういう〈ほほえましい〉句もあると思う。だが、ここでは〈変換の原理〉が働くことで、「猫」「オルガン」「すすき」の不気味な風景が描かれている。一歩間違えれば〈いかれたお茶会〉的な風景なのだが、現代川柳はすすんでメトニミカルな思考によって狂気をひきうけようとする。たとえば、
頷いてここは確かに壇の浦 小池正博
この句をふつうの〈観光句〉としてとらえることもできるが、一方でここでは時空を転流してしまったひとが、その時空の逆流に対して〈うなずいて肯定してしまった風景〉も見出すことができるのではないかと思う(これはこの句が収められた句集『転校生は蟻まみれ』の魔術リアリズム的雰囲気からそう読んでいる)。ほんとうはためらわなければならないところを、魔術的リアリズムのもとに、受け入れてしまったこと。わたしはこの小池正博の句を〈狂気を「うん」と肯定してしまった句〉と呼んでみたいと思う。
うんこ漢字ドリルも現代川柳も世界にとっては狂気(クレイジー)だ。
そもそもメトニミーというのは、あぶない原理であり、過激でもある(だから精神分析医のフロイトもラカンもメトニミーに興味を示した。いくら隠喩的に解釈してもそこからどうしてもはみ出していく解釈不能なものがあったから)。変換には〈果て〉がないので、帰ってこられないかもしれない。たとえば辞書で或る言葉を探して、その言葉の記述された意味をふたたびその辞書でさがしつづけるようなものなのだ。終わりのない狂気の風景。でも、うまく使うと、詩の爆薬を仕掛けることができる。『うんこ漢字ドリル』のように。
『うんこ漢字ドリル』も現代川柳も、世界の枠組みや語法に沿いながらも、それらに埋め込まれた事物を《わざわざ》置換していくことで世界に異議申し立て(challenge)を唱えていく文芸だということができる。
『漢字ドリル』という言葉を埋めていく形式の(実はメトニミカルだった)発想そのものに、置換の原理を応用することで、『漢字ドリル』が〈過激な文芸〉になってしまうということに『うんこ漢字ドリル』ははじめて気がついてしまったのかもしれない。漢字ドリルみずからが漢字ドリルみずからに気づいてしまうとき、それは詩になる。
うんこも川柳も、世界を殴ることにつながっている。ふだんつかっていることばに、ふだんつかっていることばで、暴力をくわえること。それが、詩だ。
現代川柳は任意性の強い文学だと拙稿「現代川柳を遠く離れて」『俳誌要覧2017年版』(東京四季出版、2017年)に書いたことがある。それは、《こうであったかもしれないが・ああでもあったかもしれないもの》だと。
世界を〈うんこ〉という任意をとおしてかんがえることは、実は〈うんこから遠く離れて〉詩に近づいていく行為だったんではないか。
みんなで少しずつ分担して、うんこを持ち帰ろう
(『日本一楽しい漢字ドリル うんこ漢字ドリル 小学6年生』同上)
(『日本一楽しい漢字ドリル うんこ漢字ドリル』文響社・2017年 所収)