2015年4月27日月曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 10[篠田悌二郎]/ 依光陽子




初蟬や疲れて街をゆきしとき    篠田悌二郎


水原秋櫻子門下にして抒情的な句を作らせたら右に出る者がいないといわれた篠田悌二郎がはたして蟬が好きだったかどうかは知るべくもないが、旧号は「春蟬」であり、そう思ってみれば蟬の句が少なくもない。

掲句は昭和8年の<奥多摩晩春十二句>のすぐうしろに置かれている。なれば強引に松蟬と受け取ってもあながち見当違いでもないであろう。
三越本店に勤めていた悌二郎だから、日本橋あたりを歩いていた時か。一日の疲れを感じながら歩いている。その耳に、不意にその年初めて聴く蟬の声がひとすじの糸のように入り込んできた。ひとすじの糸とは抒情的な解釈にしたまでで、その蟬が松蟬であるならば、ギィギィと骨の軋むような声であり、街の雑多な音の中からある違和として聴き取ったその声から、疲れの質や疲れ具合が想像できる。

注目するのは「ゆきしとき」。この人は疲れてはいるがダラダラと歩いてはいない。普段と同じ歩幅、歩調がこの言葉から見えてくる。それから初蝶、初音、その頃になると現れる鉦叩など、生き物の初鳴きは「おっ今年も来たね」と一年ぶりの友人との再会のような、ちょっとした嬉しさで心を浄化させてくれるものだ。「初」という文字がフラッシュのように一句を明るくしている。

掲句を収めた句集『四季薔薇』は篠田悌二郎の第一句集。本句集には水原秋櫻子と共に「ホトトギス」を脱会する前後の句が収められている。<初心の頃、割り合に伸び伸びしてゐた自分の句が、中頃になつて全く個性を失つて、沈滞してしまつたのは、ホトトギスの客観写生の説に迷はされてゐたからである>と後記にあり、これには共感する部分もあるのだが、結局は言い訳にしかすぎないと思う。その証拠に「ホトトギス的」俳句から所謂「馬酔木調」への遷移は見えるが、劇的に句が変化し向上しているかといえばそうではないからだ。もちろん一冊の句集で判断できることではないのだが。ともかく、秋櫻子に師事することで<漸く、真の自分をとりもどす事が出来た(同)>という悌二郎の「真の自分」は句集の後半部に当る。全体的に絵で言えば印象画的な句、洗練された耽美的な風景描写はその頃は清新だったのであろうが、今の人がこれらの句にどれだけ感銘を受けるかは各人の俳句に対する志向性によるだろう。そんな集中にあって掲句は現代でも十分に受け容れられる一句である。

暁やうまれて蟬のうすみどり 
風立てば鳴くさみしさよ秋の蟬 
埼玉や桑すいすいと春の雨 
凌霄の花のふまるる祭かな 
波更けて心もとなく涼しけれ 
人今はむらさきふかく草を干す 
はたはたのをりをり飛べる野のひかり 
ひかりなく白き日はあり蘆を刈る 
トマト挘ぐ手を濡らしたりひた濡らす

(『四季薔薇』昭和8年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)