2015年4月25日土曜日

今日の小川軽舟 39 / 竹岡一郎


菜の花や明るい未来暮れてきし      「呼鈴」

中七から見るに、一見、明るい伸びやかな句に見える。春の夕暮れの景であって、その穏やかさに明日も明るかろう世界を思うのである。しかし、「明るい未来」というのは、如何にも抽象的で、良く使われる類の標語、スローガンである。高度成長期の頃なら、誰もが気軽に使った言葉であるが、現在の世の中ではまた別である。明るい未来など、庶民はあまり信じていないのである。そうなると、この句が皮肉であると取れよう。「明るい未来」である筈だった「現在」と云う時が、為す術もなく夕闇に呑まれてゆくのである。「暮れてきし」とは、未来が暮れてゆく、即ち、神々の黄昏ならぬ人類の黄昏であると読む事も出来よう。中七を看板の文句であると読む事も出来る。そんな標語が書いてある看板は、如何にも時代遅れの、少なくとも三十年くらいは経った古い看板であろう。もしかしたらホーロー製で、ぼろぼろになった由美かおるが蚊取線香と共に微笑んでいる看板の横に掲げられているかもしれぬ。その看板が暮れてゆくのであれば、これは観ようによっては一種凄惨な、胸詰まる風景であろう。

いずれの場合にも上五の「菜の花」が重複する象徴性を持つことになる。今は失われつつある日本の田園であり、或いは臨死体験をした者が多く語る死後のお花畑を思うなら、この菜の花は中七下五の皮肉と相俟って、個人の死後の景、或いは人類滅亡の後の景を立ちあがらせる。山村暮鳥の「いちめんのなのはな」をも思い出し、暮鳥という名が夕暮れの鳥を思わせるなら、「暮れてきし」という下五はいよいよ悲しく、懐かしい。ふるさとは、かくもあどけなく未来を信じ、かくも惨たらしく懐かしい。平成十九年。