大好きな隙間に誰か立っている 久保田紺
隙間、ってなんだろう。
この句で語られているのは、〈大好きな誰か〉のことではない。「大好きな隙間」のことだ。
語り手が大好きなのは「誰か」ではなく、「隙間」なのである。すべては「隙間」から始まっている。隙間誌上主義者による句だ。ここにはヒューマニズムは、ない。
でも問題は「隙間」というのは文字通り〈透き間(スキマ)〉があるということだ。つまりどれだけ大好きであろうとも、そこに〈なにか〉や〈誰か〉が入り込むことを許してしまう〈余地〉がある。隙あってこそのスキマなのだから。
だからどれだけ隙間至上主義者であっても、そこには〈誰か〉がやってくる。「大好きな隙間」に入り込んだ〈誰か〉なのだからとうぜん語り手は気になってくるはずである。実際、「誰か立っている」と語り手は、もう、気にし始めている。
でも「誰か」という呼称にも注意してみよう。誰かがたとえそこにいたとしてもそれは「隙間」ほどのスペースしかないのだから、それが「誰」なのかを語り手は特定することができない。年齢も性別も、もしかしたら人間かどうかさえわからないかもしれない。「誰か立っている」ことしかわからない。語り手は、いま、〈大好き〉を通して〈未知〉にであっているのだ。
語り手はこれからどうするのだろう。「大好きな隙間」のためにその「誰か」を排除しようとするだろうか。それとも、その「大好きな隙間」にいる「誰か」を「大好き」になるのだろうか。
ふたの隙間から鼻血が出ています 久保田紺
この句集のもうひとつの「隙間」の句である。「ふたの隙間から鼻血が出て」いる。ああそうか、って思う。「隙間」は生命とつながっているのだ。だから「鼻血が出て」くる。
だとしたら、「隙間」が「大好き」な語り手はきっとその「隙間」でこれから〈大好きな生命〉に出会うに違いない。
隙間は、どくどくと、息づいているんだから。
ひとは橋の上で、戦場で、月の下で、誰かとであうわけでもない。隙間のなかで出会う場合だって、あるのだ。
世界はわたしたちが思っている以上に、まだまだ、ひろい。その広大さを教えてくれるのは、文学であり、川柳である。
かつて、世界の果てが失われてゆく実感のなかで、スコット・フィッツジェラルドはこんなふうに述べていた。
「そうか、空を飛べば抜け出せたのか──」
空さえも今や自由に飛び立てるようになってしまったわれわれには、いまだ未知のフロンティアとして次のことばが、残されている。
そうか、隙間があるじゃないか。ゆこう。
(『大阪のかたち(川柳カード叢書③)』川柳カード・2015年 所収)