夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう 穂村弘
たとえばパソコンでもスマホでもいいのだけれど、光る液晶画面に向かって誰かとやりとりしているときに、ふいにこの穂村さんの短歌を思い出す。今や「光ることと喋ることはおなじこと」なのは、「夢の中」だけでなく、〈現実の日常生活〉においてもありふれた事態なのではないか、と。
もちろんこの歌はメディアを詠んだ歌ではない。「夢」の中における「光ること」と「喋ること」というまったく違った次元が同一化されるような夢の魔術的な作用が詠まれた歌だ。そこでは「光ること」と「喋ること」は「おなじ」であり、さらにそうした行為と行為の距離感のゼロ性は、〈わたし〉と〈あなた〉の距離感のゼロ性につながっている。つまり「お会いしましょう」と。あなたがどれだけわたしから遠く隔たっていても、わたしはあなたに「会」うことができる。「夢の中では」。
しかし一方で、こうも思う。それはまったく現在のメディア環境そのものではないかと。スマホのLINEでも、ツイッターのダイレクトメールでもなんでもよい。通知がきて画面が光り、打ち込んで話す。距離はゼロ化され、相手は手元に〈現前〉する。メディアを通したたえざる「お会いしましょう」。
考えてみれば、この歌が収められていた歌集タイトルは『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』。手紙というツールを送り手から受け手へとメッセージを運ぶためのメディアだと考えるならば、「手紙魔」とは〈メディア魔〉のことでもある。メディア魔術師からメディア魔への「手紙」としての歌集(ちなみに「歌集」もある意味ではメディアだろう)。
今回の記事の一行目に書くべきだった一文を今書いてみよう。
《もしかしたら穂村さんの短歌は、メディアの魔術(マジック)をうたっているんじゃないかと思うことがある。》
たとえば穂村さんのよく引用される初期の歌。
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 〃
(『シンジケート』沖積舎、2006年)
この歌をメディアの歌と考えてみよう。
語り手は「サバンナの象のうんこ」をメディアととらえることではじめて「聞いてくれ」という欲望が生じ、「だるいせつないこわいさみしい」と発信することができた。しかしメディアとしての「うんこ」は受信はしてくれるかもしれないが、それをどこにも送信してはくれない。「だるいせつないこわいさみしい」はこの世界でもしかしたらいちばんアナログなメディア「うんこ」のなかに留まり続ける。
歌のなかの〈おまえ〉は「体温計」をメディアとすることで、「雪だ(ゆきだ)」を「ゆひら」と〈屈折=屈光〉して発信することができた。そのことによってそこには言葉の潜在的屈折性が生まれる。「体温計」をくわえれば、音を介して《違った》言葉が呼び出される。「う・い・あ」という母音=母型(マトリックス)から、「すきだ(好きだ)」という潜在的な言葉も呼び寄せるに違いない。言葉の可塑性をもたらす「体温計」というメディア。
複数形であるメディアにはそもそも単数形のメディウムという霊媒的な意味がある。考えてみれば、定型も不可思議な言葉の可塑性を生み出す点で霊媒的なメディアと考えることもできるかもしれない。
実際、霊的なメディアを詠んだ歌としては穂村さんのこんな歌があげられるだろう。
まなざしも言葉も溶けた闇のなかはずれし受話器高く鳴り出す 穂村弘
(『シンジケート』前掲)
受話器が外されているのにそれでも鳴る電話。メディアは、生きている。
メディアの作用は夢の作用であり、定型の作用でもある。ときにそれは「光」=〈あなた〉の〈現前〉というゼロ距離をもたらし、またあるときは「象のうんこ」のように言葉のデッドエンドをもたらし、そしてあるときは「体温計」のように言葉の屈光性を生じさせる。言葉は加速し、減速し、変速する。「夢(メディア)の中では」。
はしゃぎながら、またがりながら、回遊しつづけるメディアに乗ったままわたしたちは生きて・死んでいく。ひとつ言えることは、そのまま「はしゃいで」いたければ、そのメディアの〈顔〉を決して見てはいけないということだ。メディアが《生きていること》に気が付いてしまうこと。それはメディアがあなたを直視していることに気づいてしまう瞬間でもあるのだ。メディアの魔術師が、そう言っている。
はしゃいでもかまわないけどまたがった木馬の顔をみてはいけない 穂村弘
(『シンジケート』前掲)
(「手紙魔まみ、ウエイトレス魂」『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館・2001年 所収)