2016年9月9日金曜日

フシギな短詩39[夢野久作]/柳本々々


  秋まいる静かな山路に
  耐え兼ねて追剥を
  した人は居ないか  夢野久作



江戸川乱歩は「夢野久作とその作品」(『探偵春秋』1937年5月)という講演において、「夢野君は又猟奇の歌というものを幾つかお書きになっておられます。詰らないものも多いのですが、私は非常に好きなものもある。そういう私の好きな猟奇歌を四つ五つ読んで見ます」と述べ、上の歌を紹介している。

この歌で注目したいのは、「追剥」が金品を目的にした〈犯罪〉なのではなくて、「秋まいる静かな山路」を解消するための〈犯罪〉だという点だ。語り手がここで語っている「追剥」とは、金品が欲しいから「追剥」するわけではなくて、「秋」の〈自然〉の〈静けさ〉によって「追剥」に追い込まれる人間なのだ。

つまり、もしそういう「追剥」があるとするならば、「追剥」にあっているのはその〈犯罪者〉自身とも言える。それはある意味で〈犯罪〉のベクトルの転倒でもある。犯罪をしてなにかをなしとげるのではなくて(犯罪は手段)、なにかがなしとげられたことによって犯罪をするのだから(犯罪は結果)。
だとしたら夢野の歌において〈犯罪〉とは、自身に結果をもたらすための手段ではない。すでに結果として自身に胚胎してあるものなのだ。これはなににも奉仕しない(そう言ってよければ)〈犯罪精神〉の自律である。

  ぬす人の心になりて
  町をゆけば
  月もおぼろにわが上をゆく  夢野久作

   (「猟奇歌」『文藝別冊 夢野久作』河出書房新社、2014年)
ここで〈犯罪〉はすでに「心」として語られている。「心」に昇格した「ぬす人」の〈精神〉は「おぼろ」な「月」に感応することのできるメディアとなる。それは「ぬす人の心にな」らなければ得られない「月」への感応である。

だとしたら、大胆に言えば、夢野久作にとって〈犯罪〉とは〈趣き〉であったと言ってもよいのではないだろうか。〈犯罪〉を〈趣き〉を運ぶ感応メディアとして設定すること。それが「猟奇歌」における〈犯罪観〉ではないか。

  何故といふことなしに
  殺したくなるのです
  あとから跟(つ)いて行き度くなるのです  夢野久作

  何かしら打ちこはし度き
  わが前を
  イガ栗あたまが口笛吹きゆく  〃
   (「猟奇歌」前掲)
〈趣き〉とは何にも奉仕・従属することなく、ただ「何故といふことなしに」「何かしら」〈なんだかいいなあ〉と思ってしまう精神のモードではなかったか。

〈趣き〉。犯罪に対する「萌え」の精神。かれは、萌えている。

          


(江戸川乱歩「夢野久作氏とその作品」『文藝別冊 夢野久作』河出書房新社・2014年 所収)