漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の著者である荒木飛呂彦さんは、自らの創作方法を語った『荒木飛呂彦の漫画術』の「導入の描き方」において次のように語っている。
五・七・五になっているセリフ 荒木飛呂彦
最初の一ページにどんなセリフが来れば次のページも読みたくなるのか、考えつくものを挙げてみましょう。
・ドキッとするセリフ
・しっとり落ち着くセリフ
・癒されるセリフ
(……)
・五・七・五になっているセリフ
・ラップのように韻を踏んでいるセリフ
(荒木飛呂彦「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書、2015年)
興味深いのは、最初の一ページのセリフ例のひとつとして五七五定型が現れていることだ。なぜ、五七五定型が「次のページも読みたくなる」ようなセリフなのだろう。
荒木さんは「最初の一ページで、その漫画がどんな内容なのかという予告を、必ず描くようにしてい」るという。そこらへんにヒントがありそうだ。つまり、たった一言のセリフが全体をそのままあわらすということ。
実はそうした俳句の働きについて言及している小説家がいる。アメリカの詩人ジャック・ケルアックだ。ケルアックはインタビューにおいて子規について言及したあとでこんなふうに俳句について話した。
俳句? 俳句が聴きたいか? すごいビッグなお話を短い三行に圧縮するんだよ。
ビッグなお話を圧縮したミニマルな形式で提出すること。それがケルアックにとっての俳句だった。(ケルアック、青山南訳『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』岩波書店、2015年)
荒木飛呂彦さんやケルアックなどの定型に対する考え方、つまり全体を部分として圧縮したのが定型、から考えてみたいのは、定型詩というのは提喩的な働きをなすということだ。
提喩(シネクドキ)とは、なにか。それは、全体を部分であらわす喩え方だ。たとえば、「文学とパン、どちらが大切だろうか」とあなたが問いかけられたときに、ここでの「パン」は「パン」だけでなく、「食べること全体、食べ物全体」をも同時にあらわしているはずだ。つまり、文学と食べ物、どっちが大事か、と。それを提喩であらわせば「文学とパン、どっちが大事か」になる。食べ物(全体)をパン(部分)によってあわらしたのだ。それが提喩である(ちなみに他の例では、「目玉のおやじ」や「口裂け女」も「目玉/口」(部分)が「おやじ/女」(全体)をあわらしているので提喩だ)。
定型詩は、提喩的な働きをなす。それはつまりどういうことかといえば、提喩の働きがそうであるように、部分によって全体を、最小によってこれから展開される広大な空間をあわらすことになる。だから五七五を一ページに置けば、それはこれからの物語空間の全体の予期になる。
それはどんな一部をもぎとっても、そのもぎとった部分そのものが全体そのものと似てしまうフラクタル構造のようなものと言ってもいいかもしれない。部分イコール全体であり、全体イコール部分であるフラクタル。
荒木さんはデビュー作の漫画『武装ポーカー』の最初の一ページに「『5W1Hの基本』『他人とは違う自分ならではの個性』『同時に複数のねらいを描く』『漫画全体の予告』」という「最後まで編集者にページをめくらせたい」「必要な要素」を「すべて」込めたという。そういう読者の欲動を一気に鷲掴みにするような最小形態は先ほどのケルアックの言葉を借りればこんなふうにも言えるだろう。
「短くてスウィートで思考がいきなり跳躍するような文章は、まあ、俳句だな」
しかしこれらの最大にして最小のフラクタルは定型詩そのものにもあてはまるのではないか。すべてが込められていて、全体でありかつ部分であり、最大で最小の、スウィートな跳躍。それが定型詩なんだと。
荒木飛呂彦さんやケルアックをめぐりながらもいったいなにを言いたいのかというと、定型詩は、定型詩〈内〉の空間だけをめぐりめぐっているわけではないということだ。定型詩はわたしたちの知らない〈奇妙〉なところにそっと密輸されているかもしれない。俳句の空間だけにあるのが俳句ではないかもしれないし、短歌の空間にあるものだけが短歌でもないかもしれない。それそのものの根っこはいつも〈外側〉にある(と、ラカンは言っていた)。
ちなみに『ジョジョの奇妙な冒険』と俳句をめぐっては、荒木飛呂彦責任編集のムック『JOJOmenon(ジョジョメノン)』誌上において「ジョジョ句会」が開かれている。ジョジョ文化と俳句文化がどういうふうに衝突しあい融合しあうかが実況的にわかるので興味のある方はぜひ読んでみてほしい。
ジョジョ立ちの正中線や秋の天 堀本裕樹
運動会子ら吠える午無駄無駄UURRRYY! 柴崎友香
「あなたも河馬になりなさい」だが断る 千野帽子
(「ジョジョ句会」開きました。」『SPURムック JOJOmenon』集英社、2012年)
落ちつくんだ…「素数」を数えて落ちつくんだ…「素数」は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる
(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』6巻、集英社、2001年)
(「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書・2015年 所収)