いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい 北山あさひ
この短歌が収められている連作のタイトルは「グッドラック廃屋」。「グッドラック廃屋」ってどういう意味なんだろうって考えたときに、ふたつの意味合いが出てくるんじゃないかと思う。
ひとつは、グッドラックは別れの言葉なので「廃屋」に対してなにか別れなり見切りをつけようとしていること。もうひとつは、グッドラックは相手の幸運を祈る言葉なので、〈これから〉の「廃屋」の未来になんらかの期待をもっていること。
「廃屋」ではなくて「廃墟」についてだが、社会学者のジンメルがこんなことを言っている。
建築における廃墟はしかし、次のようなことを意味している。つまり芸術作品の、消えてしまったりこぼれたりした所に、他の、とはすなわち自然のエネルギーと形が後を追ってはびこり、かくして、廃墟のうちでまだ生きている芸術と、すでに生きている自然とから、新しい全体、独特な統一が生まれる、ということである。…言い方をかえれば、廃墟の魅力とは、人工がついには自然の産物のように感受されるということである。
(ゲオルク・ジンメル、川村二郎訳「廃墟」『ジンメル・エッセイ集』平凡社ライブラリー、1999年)
「人工」と「自然」が「独特な統一」をなしとげること。ジンメルは荒廃した建築物としての「廃墟」について述べていたが北山さんのタイトルは荒れ果てた家屋である「廃屋」だ。
「廃屋」は「廃墟」よりももっと《家》の荒廃にピントを絞った言い方であり、ここに掲出歌の「結婚」の意味が重なってくるように思う。
「法規範によって認められ維持される男女の性的結合関係」である「結婚」は〈人工物〉であり、〈自然物〉ではない。だからこそ〈ふたり〉でたゆまぬ努力をしないと、それは〈廃屋〉化するものだ。しかしこの歌の驚くべきところは、その「結婚」に対して「結婚を一人でしたい」と積極的に〈廃屋〉化させるベクトルを持っていることだ。
「一人で生きたい。結婚したくない」と結婚そのものを投げ出したわけではない。「結婚」は「したい」と言っている。しかし「一人で」。これは〈結婚〉そのものの積極的〈廃屋〉化ではないか。
言うなればここにあるのは〈廃屋の感性〉である。この社会では一人で結婚することは許されていない。というよりもそう考えるひとは〈壊れている〉ひとだと疎外されるだろう。語り手もそのことを知っている。それは「いちめんのたんぽぽ畑」で「呆け」たひとがいう発話なのだと。
だからどのみちそれが不可能なことに気がついている。それを思ったしゅんかんがただちに〈廃屋〉であることを。すなわち、「グッドラック廃屋(ごきげんよう廃屋)」と。それがこの社会で生きていくことだから。
でもどこかでその「廃屋」的感性の行く末についても願いを込めている。「結婚を一人でし」てもいいような、〈結婚〉という概念が〈廃屋〉化することが受容される社会の未来を。「グッドラック廃屋(廃屋に幸あれ)」と。
これから社会や未来がどのように動いていくかは、わからない。でも〈廃屋的感性〉だけがみつめることのできる〈社会のこれから〉がある。
廃墟の美的な価値は、釣り合いの取りようもないもの、一人角力でもがいている魂の永遠の転変を、満ち足りた形、くっきりと縁取られた芸術作品の形と結びつけた所にある。
(ジンメル「廃墟」前掲)
人工物と自然物がぶつかりあった「結婚を一人でしたい」という「永遠の転変」としての〈廃屋〉的感性を短歌として「形」象化したこと。
「グッドラック廃屋」は、決して廃屋の挽歌ではない。廃屋の〈これから〉が込められた歌なのだ。不思議なことだが、この歌をとおしてこういうしかない。廃屋は、いつも、未来にある。
(「グッドラック廃屋」『短歌研究』2014年9月号 所収)