2017年4月2日日曜日

フシギな短詩98[谷川俊太郎]/柳本々々


  建物は実にかすかに揺れているそのことだけに気がついている  谷川俊太郎


短詩に対しては谷川さんのこんな発言がある。

  七・五調のもっている日本的な情感というのに、僕はちょっと不感症的なところがあって、俳句止まりなんです。短歌になると、もう、あの演歌みたいな調子が心情的にちょっとだめなんです。七・五調で書かれたものというのは、やっぱりどうしても我々から見ると、アナクロニズムなんですよ。だから、七・五調をうまく取り入れながら、それを崩して、日本語の調べというものをなにか探してきたというのが、私の詩の書き方だと思いますね。
  (谷川俊太郎『心理臨床プロムナード-こころをめぐる13の対話』遠見書房、2015年)

この発言には、「七・五調をうまく取り入れながら」も「それを崩」しながら独自の「調べ」を立ち上げていくという谷川さんの〈関係的リズム観〉がよくあらわれている。「七・五調」をただ「アナクロニズム」として否定するのでもなく、取り入れつつも・崩し、調べを探求しつづける。

瀬尾育生さんは『日本文芸史-表現の流れ 第八巻・現代Ⅱ』(鈴木貞美編、河出書房新社、2005年)において谷川俊太郎さんの詩の特徴を、

  透明で無限定なひろがりとしての〈コスミック(宇宙的)なもの〉と、親和的な他者たちがかたちづくる〈ソシアル(社会的)なもの〉とが交叉しあう神話的な秩序が谷川俊太郎の世界をかたちづくる。

と述べている。「人々との伸びやかな関係の中にある肯定的な生」が谷川俊太郎さんの詩のダイナミズムだという。ここにも先ほどのような関係を切断するのではなく育みながら考えていく生のあり方が記述されている。

  人類は小さな球の上で
  眠り起きそして働き
  ときどき火星に仲間を欲しがったりする
  火星人は小さな球の上で
  何をしてるか 僕は知らない
  (或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
  しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
  それはまったくたしかなことだ

  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である

  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う

  宇宙はどんどん膨らんでゆく
  それ故みんなは不安である

  二十億光年の孤独に
  僕は思わずくしゃみをした
   (谷川俊太郎「二十億光年の孤独」『谷川俊太郎詩選集1』集英社文庫、2005年)

谷川さんの有名な詩。「孤独」と詩は題されながらも〈もとめ合う力〉を軸に詩は展開されていく。

「人類」は「仲間を欲しがったり」し、「火星人」の「ネリリ」「キルル」「ハララ」という異言語に想像をめぐらす。「火星人」の言葉を想像し言語的関係を持つことで、「火星人」の立場から〈こちら側〉の〈わたしたち〉をみつめなおし、「人類」と「火星人」のきもちどちらもを複合させる「万有引力」という発想にたどりつく。

「万有引力」こそ、最強の〈関係〉のちからになる。

しかしその最強の〈関係〉が手に入るやいなや、「不安」があらわれ、「僕」という孤独な主語が最後にやってくる。この詩が〈孤独〉なのは、「僕」という主語を〈最強の関係〉の後に〈発見〉してしまったからだ。だから「僕」は「くしゃみ」をする。「くしゃみ」は、歌うことや話すことや手をつなぐことや抱き合うことと違い、たったひとりでしなければならないアクションだから。

こうした〈関係〉と〈孤独〉の「ひき合う」ちからこそ、谷川さんの詩のダイナミズムかもしれない。それは、どっちでもない。「みんな」の詩でもあり、「僕」の詩でもあるのだ。

掲出歌も、そうだろう。「建物は」「ゆれている」のだけれど「実にかすかに」ゆれているので、それは誰にも気づかれない。ここには「建物」の〈孤独〉がある。しかし「建物」は「ゆれ」ることによって、〈みんなの力〉のなかにも組み込まれている。建物を支える土台そのものもおそらくゆれているのだから、それはその土台にたつものたちにも感じられるはずだ。

でも短歌の下の句では「思わずくしゃみを」するように孤独なアクションがつづられる。「そのことだけに気がついている」と。「建物」はほかのことには気がついていない。ただ「ゆれている」ことだけに「気がつ」くという〈認識の孤独〉が語られる。でも、「ゆれ」は〈万有引力〉としては、どこかへはつながるだろう。

ところで谷川さんの詩と歌の意味内容としての〈ゆれ〉をみたが、この〈ゆれ〉の感覚を形式=定型の生命感覚として実践する歌人に岡野大嗣というひとがいるように、おもう。

  ひやごはんをおちゃわんにぼそっとよそうようにわたしをふとんによそう  岡野大嗣
   (「わたしだけのうるう」『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月)

  ひやごはんを/おちゃわんにぼそ/っとよそう/ようにわたしを/ふとんによそう

わたしなりに区切ってみたが、67577になっている。だから実は定型からほとんどぶれていないのだが、6音の不安な出だしから「ぼそ/っと」で定型がまたがっていくあたりで不安が増幅される。定型のゆれていく使用によって、「ひやごはん」的生のありかたが醸成されている。語り手は「ひやごはん」のように「ぼそっと」ふとんに転がる。ゆれながら。この歌をみているとこの「ゆれ」は谷川さんの建物のように定型が「そのことだけに気がついている」ものなんじゃないかと思えたりもする。

かっちりし切れない〈ゆれ〉というのはなにかの感覚を呼び起こすかもしれない。それがなんなのかわたしにもわからないけれど。定型をゆさぶったり定型からゆさぶられたりするのはどういうことなんだろう。そのヒントが定型と組んず解れつしている谷川さんや岡野さんにはあるように思う。しかし今回はいったいどうしたんだと言われるようなゆれた記事を書いた気がしている。まあ、いいんだけれど。

  ほほえみに私自身も気づかない落ちたりんごが腐り始める  谷川俊太郎

  歌詞わからないまま好きな洋楽のそういう良さの暮らしをしたい  岡野大嗣

          (「生誕について」『詩を書く なぜ私は詩をつくるか』詩の森文庫・2006年 所収)