2015年2月12日木曜日

きょうのクロイワ 16 [塚本みや子]  / 黒岩徳将


縄電車傾きながら春野来る 塚本みや子

筆者は縄電車という遊びをしたことがない。想像でしかないが、楽しく、ときに甲高い子どもたちの声が聞こえてきそうだ。懐かしの遊びを題材にしてノスタルジーを演出する俳句は類想がありそうだが、中七の「傾きながら」が面白い。縄電車が傾くためには一番前と一番後ろがしっかりと張っていないと難しいだろう。何人いるかはわからないが、この縄電車のチームワークは相当によい。凄まじい勢いで春野を駆けてほしい、なぜなら筆者にはもはや難しいことであるからである。

<夕凪 2014年7月号(No.789)より>

2015年2月11日水曜日

貯金箱を割る日 16[和田誠] / 仮屋賢一



人形も腹話術師も春の風邪  和田誠


腹話術を見たあと、自分でもできるんじゃないかと思ってしまう。で、真似してみたら全然できない。こういう経験、あるだろう。どれほどの超絶技巧であっても、凄いと思わせないのがプロの技なのだろうか。腹話術という芸は見ている人々ととっても近い位置にある。

人形だって、人間と見紛うほどの精巧なもの、というものでは決してなくて、どこかがデフォルメされているような、いかにも人形らしい滑稽なもの。声を出しているのは腹話術師だって分かっていても、あたかも人形が生命を持っているように見えるから不思議だ。

そういう近しさや滑稽さからなのだろうか、腹話術の人形ほど風邪を引きそうな人形は他にない。大したことはないけれども、長引くという嫌らしさを持った春の風邪。もしかしたら風邪のことも盛り込んで軽妙な会話を舞台上で繰り広げているのかもしれない。

腹話術師が風邪を引いているから、当然のように人形も風邪、と言ってしまえばそれまでだけれども、この作品はそんな短絡的な世界観ではない。腹話術師と人形が、常に一緒に行動する相棒であるからこそ、風邪もうつってしまったかのようなこの感じ。絆というか、なんというか。和田さんのイラストとも相通づるものを感じるような、とってもあたたかな空気感がここにある。

《出典:和田誠『白い嘘』(梧葉出版,2002)》

2015年2月10日火曜日

黄金をたたく11 [石原吉郎]  / 北川美美


いちご食ふ天使も耳を食ふ悪魔も  石原吉郎 

作者は詩人の石原吉郎(1915 – 1977)。

最後の「も」がどこに掛かるのか、と考えつつ、上五に戻り、ぐるぐると循環する。俳句という一行詩ならではのこのマジックである。本人の自句自解では、「悪魔ガ食フ耳トハイカナル耳ナリヤ」ということが記されているが、上五に戻るという読み方は俳句的読み方なのだろうか。

天使・悪魔・☆☆という三者と、いちご・耳・○○ という三つの食べる対象があり、<天使―耳>というペアは崩せないが、☆☆、○○に好きなものを当てはめ、あとは好きに組み合わせてよく、それをシャッフルしてよいというルールで読みたい。

そしてみな食べている。 


この句集の巻末に石原吉郎の<定型についての覚書>が記されている。

「誤解を避けずにいうなら、俳句は結局は「かたわな」舌足らずの詩である。(中略)かたわであるままで、間髪を容れずもっとも完全であろうと決意するとき、作句はこの世界のもっとも情熱的ないとなみの一つとなる、「自由」な現代詩は、このようなパラドキシカルな苦悩と情熱を知りもしないだろう。」

三詩型を交え、「詩学」についての論考が盛んに行われていた時代である。
昭和50年前後…40年前の頃である。



<『石原吉郎句集』深夜叢書1974>

2015年2月9日月曜日

人外句境 7 [上田信治] 佐藤りえ


靴べらの握りが冬の犬の顔  上田信治

高級な靴べらを思い浮かべる。商店街の記念品の、プラスチックに商店名が刻印されたようなものではない。

金属製で持ち手とへら部分の間が細い棒状になっているものや、装飾の施された木製のもの、革製のものなど、持ち重りのしそうなものを思ってみる。

その握りの部分に犬の顔の装飾がある。装飾というと一部のようだが、犬の頭部なのかもしれない。傘の握りが鳥の頭だったりするように。

狩猟犬だろうか。チワワとかではない気がする。いや、チワワでもいいけれど、もっとこう、キリッとした犬種のほうがふさわしいだろう。

掴む部分がそのようになっているなら、来客用の靴べらだろうか。昭和の時分に立てられた邸宅の玄関を思い浮かべる。ひんやりした空気の漂う冬の玄関に、靴べらを持つ人がいる。


この句が「握り「に」冬の犬の顔」であれば、靴べらを観察したんだな、と思うところだった。またその「顔」は平面的なものに感ぜられる。

「握り「が」冬の犬の顔」であることから、靴べらの握りが手中にあるように思えた。そしてその「顔」は立体的で、その「顔」に触っている、そういう感慨が感ぜられる。

「が」を力点として、主体の認識が句の中心に据えられ、そんな主体を窺うでもなく、つるりとした瞳の冬の犬の顔がある。


〈『線路』週刊俳句第393号 2014落選展より〉

2015年2月7日土曜日

今日の安井浩司 2  / 竹岡一郎


さまざまな蛇持ち寄るや雲の下        安井浩司

 蛇は魔であり、時に毒であり、智慧であろう。要するに、神秘なるものである。時に神に最も刃向かうものでもある。持ち寄るのは同志であろうが、蛇はその同志たちの魔であり毒であり智慧であり神秘であり反逆であろう。雲は大いなる迷妄を思わせるが、蛇を持ち寄るのだから、季は夏であり、迷妄といえども明るく高く照り輝いているのだ。

「汝と我」(増補安井浩司全句集435頁)

2015年2月6日金曜日

きょうのクロイワ 15 [高木肥子]  / 黒岩徳将


立春や狛犬に血の蘇る   高木肥子


立春という時期に、命あるものでなく、人工物である狛犬に惹かれる作者の目線に惹かれる。狛犬の厳しい目元を想像させると同時に、「蘇る」とあるので石の下部から狛犬の全身に血が通い始めるイメージが筆者の中に広がった。

かつては生きていたのだ、と思うと、冒頭で書いた人工物という淡白な形容では言い表せないのが狛犬なのかもしれないと思わせてくれる。


「藍」平成27年2月号より

2015年2月5日木曜日

貯金箱を割る日 15[夏目漱石] / 仮屋賢一



初夢や金も拾はず死にもせず   夏目漱石

初夢だからといって、特別おめでたい夢を見るかといえばそうでもない。いつものように、訳の分からない夢だったり、現実と混同してしまうようなリアルな夢だったり、そもそも夢を見たかどうかすらあやふやだったり、そんなもの。でもそういう、日常と何ら変わらないことにめでたさや嬉しさを感じるのが人間。

とはいえ、「金も拾はず」がめでたいと感じるのも、考えてみれば不思議だ。さすがに100万円拾う夢を見たら不安も拭い切れないが、100円拾う夢だったら何の懸念もなく「めでたい夢だ」と思うだろう。多分、日常的で一般的なめでたさの基準は、ここだ。逆に1円でも落とせば、どこか不吉な感じが漂う。「金も拾はず」が、めでたさラインのすれすれを言い当てている。だからこそ、「死にもせず」が非常に幸せなものとして映る。


ところで、「幸せ」は、世相をリアルタイムで映し出すものだとつくづく思う。「死にもせず」生きていることがどれだけ幸せであるのか。一ヶ月前にこの句を鑑賞するのと、今日鑑賞するのと、心持ちが大きく異なる、という日本人は、特に多いに違いない。そう思いつつ、2015年の立春の日も終わりを迎えようとしている。

《出典:『漱石全集』》

2015年2月4日水曜日

黄金をたたく10 [須藤徹]  / 北川美美


白梅や水匂う夜の飛行服  須藤徹 

たとえば夜間飛行。飛行機に乗っている間、機内は今日でも昨日でもない不思議な時空を旅する空間となる。眼下に見える街の灯りがどんどん遠ざかり、遠い地平線が消えて、 ふかぶかとした夜の闇に心を休める…夜の静寂(しじま)の…なんと饒舌…な…ことでしょう…ジェットストリーム…(FM東京長寿番組)。

そして、梅が咲く頃は、地球を意識する。寒い季節に咲く小さく丸い花びらからの形からだろうか、梅は、人を戸外へといざなう。季節が移る=地球の自転、を意識するからだろう。空の香に水の香があるように…作者はグラスを傾けながら酔いしれているのである。 大人の男の冒険心とロマチシズムが漂う。

<『幻想録』邑書林1995年所収>

2015年2月3日火曜日

人外句境 6 [大石雄鬼] 佐藤りえ


木乃伊の手胸にとどかず雁渡る  大石雄鬼

ミイラときけば古代エジプトの王の墓や、日本なら入定、即身仏といったものが浮かぶが、そうしたやんごとなきひとびとにかぎらない、ひとりのミイラを眼前に置いてみる。

そのミイラには手がある(全身が現存するか、部分的に残るかは生成の過程や環境による、らしい)。まっすぐ体側に伸ばされているのか、胴体の上で軽く組まれているのか。その手が動き、自らの胸に届くことはない。

胸は心臓の位置とされ、なおかつ「心」や「魂」のある場所と仮定されがちな場所でもある。不老不死や蘇りといった事々に彩られたミイラの、その手が胸に届いていないという把握は、少しの不全感を連れてくる。

死してもなお、生きている人々の想像力によって、ミイラはある意味生かされている状態にあるとも言える。

その「死に切れない」不全をおぎなうには、祈りでも捧げるよりほかはない。

ミイラの「手」と「胸」に関する深読みは、そこに帰着する。


〈『だぶだぶの服』ふらんす堂 2012〉

2015年2月2日月曜日

今日の安井浩司 1 / 竹岡一郎


鴉裂いて火の源(みなもと)を摑み取る    安井浩司

鴉は八咫烏であろうか。或いは、楚辞に記される「日輪に潜む三本脚の鴉(火烏)」であろうか。太陽の精気が凝り集まったものと言われ、その足の数が三本なのは、陽の気はその数が奇数であるからという。掲句は、太陽を裂いているのである。火の源とは、陽の源である。「高浜虚子私論」において、安井は虚子の巨人願望について触れている。「一人の夢想家が、俳句形式を通してのみ自立しようとするその渇仰の対象であり、極小が、また、極大であることの大いなる意図を仮託しようとしていたのではなかろうか。」掲句も、巨人を詠った句なのだ。


『四大にあらず』(増補安井浩司全句集661頁)