2016年10月11日火曜日

フシギな短詩48[ながや宏高]/柳本々々


  玄関に靴を浮かべて沈まないように祈ってから乗りこんだ  ながや宏高

どうして語り手は「沈」むかもしれないと思ったのか。「祈っ」たのか。

この問いから、はじめてみよう。

歌人の光森裕樹さんがこのながやさんの連作「水性ファンタジー」を「水に関する歌で揃えた〈水しばり〉の一連である」(「境界の表面張力」『『かばん』別冊・新人特集号 Vol.6』)と解説しているように、このながやさんの連作は〈水〉にあふれている。

ここで〈水〉のあるひとつの作用を思い出してみよう。それは〈不可逆〉を持ち込む点である。たとえば、なんでもいい、雨に濡れた本のことを考えてみよう。本は乾かせることができるかもしれないが、しかし《元の状態に戻ることはない》。

このながやさんの連作は「水性ファンタジー」の表題のとおり、全編水に満ちている。その意味では以前取り上げた野間幸恵さんの水をめぐる俳句の雰囲気にも似ている(拙稿「フシギな短詩18[野間幸恵]」)。水をとおして世界のそこかしこを思いがけないかたちで移動していく。しかし決定的なのは、その水の移動とともに、水の不可逆がセットで語られていくことだ。

  破裂した水ふうせんの結び目は悪魔のへその緒じゃありません  ながや宏高

  スライムの死体かよって言い合ったアイスキャンディー溶ける路上で  〃

  テーブルにこぼしたダージリンティーは「夕日に染まる湖」役に  〃

「破裂した水ふうせん」、路上で溶けた「アイスキャンディー」、「テーブルにこぼしたダージリンティー」。どれも《もう元に戻らない水》である。

連作の雰囲気から掲出歌を読むとするならば、語り手はこの《水と不可逆》の雰囲気のなかで、玄関に並んだ靴を履こうとしている。いや、「履く」ではなく、「乗りこ」もうとしている。靴は、語り手にとっては船だからだ。だから、「沈」む可能性があり、「沈」めば不可逆として二度と浮かび上がらない可能性も感じ取っている。それが連作の《雰囲気》のなかにおける「靴」のありかただ。

語り手が「沈」むかもしれない「靴」に「祈」りながら「乗りこんだ」のはそういうわけだ。この連作という不可逆の船そのものに語り手は乗っていたから。

この「水性ファンタジー」における水は明らかに不可逆の水である。その意味で、光森裕樹さんがこの連作を「境界への意識」から読み解いていたことに注意したい。不可逆とは、境界をこえたら、二度と戻ってはこられない境界線だからだ。

この連作の水は、このわたしに覚悟を要請してくる水だ。境界を越えるのか、越えないのかの、覚悟を。おまえはどうするのか、と。

  対岸で手をふっている人がいるこちら側には僕しかいない  ながや宏高

前回の笹井宏之さんもそうだったが、もしかすると短歌にはいかに不可逆を、境界を、越えるかが、つねに賭けられているのかもしれない。短歌の性質として。はじまったら《一方通行的に》終わらなければいけない定型詩の宿命として。

短歌とは不可逆をひきうける覚悟であること。或いはその覚悟への予期と準備と恐怖であること。「沈まないように祈」ること。たとえば穂村さんの予期と準備と恐怖の歌。

  「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士  穂村弘
   (『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館、2001年)


          (「水性ファンタジー」『『かばん』別冊・新人特集号 Vol.6』2015年 所収)