2016年10月21日金曜日

フシギな短詩51[斉藤斎藤]/柳本々々


  船のなかでは手紙を書いて星に降りたら歩くしかないように歩いた  斉藤斎藤
昔、小高賢さん編集の『現代の歌人140』(新書館、2009年)でこの一首に出会った。「歩くしかないように歩いた」が印象的でずっと覚えていたのだが、今回斉藤斎藤さんの新刊の歌集『人の道、死ぬと町』で連作としてこの一首に出会い、この歌が「肉なわけがない」と題された連作内に収められた一首であることを知った。

この連作「肉なわけがない」から連作を通してあらためて今この歌に〈出会い直し〉たとしたらどういう歌として受け取ることができるのだろう。

この連作には「USJに行って帰った」と詞書のついたこんな歌がある。

  ここにいてはたらくことのよろこびが時給の安さに負けているのだ  斉藤斎藤
「はたらくことのよろこび」という価値観は「時給の安さ」という個人がどう抗おうとも動かしがたい社会が規定した〈枠組み〉に抑圧されている。こうした規定した〈枠組み〉にこの連作は非常に敏感だ。

  図書館で借りた死体の写真集をめくった指でぬぐう目頭  斉藤斎藤 
  左側の扉がひらき人のながれに途切れないよう降りるつづいて  〃 
  「肉なわけがないでしょうこの価格で」とカツは居直るカレーまみれで  〃

「図書館で借りた死体の写真集をめくった」に規定される「指」、「左側の」ひらいた「扉」にできた「人のながれ」に規定された「降りる」、「この価格」に規定された「肉なわけがない」「カツ」。

「指」も「降りる」も「カツ」もナチュラルに無-環境のなかふわふわと浮いているのではなく、あらかじめ規定されてから生まれ出た〈なにか〉である。そしてその〈なにか〉をわたしたちはいったん規定された上で受け取る。その規定に対する感受性を連作は何度も繰り返す。

つまりこの連作内の短歌は、「歩くしかないように歩い」ている規定された語り手の短歌なのである。それらはすでに規定されたものであり、「歩くしかないように歩」くしかないものなのだ。

じゃあ、どうすればいいのだろうか。規定されるしかないのか。

ここで大事だと思うのは連作タイトルの「肉なわけがない」である。「肉なわけがない」という規定に対する感受性。規定はくつがえせないかもしれないが、しかしそれに敏感になることはできる。「肉なわけがない」と。

この歌集には多くの散文が収められているがこんな斉藤さんの一節がある。ちょっと長くなるが斉藤さんの短歌観を率直にあらわしているように思うので、引用してみよう。

  短歌は短い。三十一文字だから、ボロが出る前に書き終われてしまう。一定の技術があれば、ほんとうに思ってないことでも、ほんとうらしく書けてしまうものだ。一首一首をそれなりに仕上げることは、実はそれほど難しくはない。 
  だから大切なのは、何を書くかではなく、何を書かないかだ。 
  歌詠みが歌人となるためには、それなりに書けてしまう歌を、文体を、捨てる作業が必要だ。他人に書ける歌は他人にまかせ、自分がもっとも力を発揮できる文体とモチーフを突き詰めてゆくことで、ひとりの歌人が誕生する。 
   (斉藤斎藤「棺、「棺」」『人の道、死ぬと町』短歌研究社、2016年)
この斉藤さんの言葉を私なりに先ほどの連作の歌ともあわせた上で言い換えてみるならば、これはこんなふうに言っているのではないか。《じぶんで規定をつくりなさい》と。押しつけられた規定に敏感になり、その規定を意識化しながら、みずからの規定を生みだし、その自己規定にしたがいながら、「歩くしかないように歩」くこと。

わたしはふと岡井隆さんが言っていたこんな言葉を思い出した。

  定型の思想とは、まず第一に、詩型に関する《契約》の思想であるとかんがえられる。 
  定型詩人は、最初の読者である自己を含めた想定上の読者との間に、詩という、言語の継時的展開に関する、一つの契約を結ぶ。 
  その定型詩によっている限り、この契約は破られてはならない。 
  契約は、一面において、自由の制限であり拘束であるが、同時にそれが、自在感を生むようなよろこばしい制限になるのである。 
   (岡井隆『短詩型文学論』紀伊國屋書店、2007年)
定型詩を書くものは、定型詩に対して「一つの契約を結ぶ」。

掲出歌では語り手が「船のなかで」「手紙を書いて」いたが、この「船」を定型詩と見ることもできるのかもしれない。その「船」のなかで語り手は「手紙を書いて」いる。定型(船)のなかにおける他者(手紙)への〈書くこと〉。それは「星」という規定された環境と結びつき、「歩くしかないように歩」く〈契約〉を生み出す。

かもしれない。

この歌集『人の道、死ぬと町』はタイトルの通りに、さまざまな〈死〉に満ち満ちている。そしてその〈死〉のなかには、「いずれ私の震災がやってくる」(「私の当事者は私だけ、しかし」)と書かれているように、やがてくる〈わたしの《死》〉も折り込まれている。

「死ぬと町」。「町」というひとびとが織りなす共同体はすでに「死」によって規定されている。だがそれは「死」ではなく「死ぬ」なのだから、同時に、「生きる」でもある。ひとは「生き」ないと「死ね」ないのだから。

生きるということは、生きるよりも前に「生きる」という規定を感受することなのだろうか。規定。たとえば、低いほうにすこしながれて凍ってる。わからないけれど。自由でないまなざしの、環境の規定。それは。そのなかの、生きる。わからないけれど。でも、生きるは人生とは違うから。その生きるもまた「本業」として規定されてあること。それは。

  低いほうにすこしながれて凍ってる わたしの本業は生きること  斉藤斎藤
         
 (「肉なわけがない」『人の道、死ぬと町』短歌研究社・2016年 所収)