2016年10月28日金曜日

フシギな短詩53[岩田多佳子]/柳本々々


  逃亡をはかる親指のいっぽん  岩田多佳子
精神分析家の向井雅明さんが思想家のジャック・ラカンを解説したこんなことを言っている。

  心理学では……脳の発達段階に到達し、内的に成立した自我が、自分のイメージを外部の他者の間に混じって存在しているものとして鏡像を認める…。
  それに対して精神分析的解釈では、そもそも人間には内的な自我に相当するものはなく、その代わりにあるのは自らの身体の寸断されたイメージでしかない。
 

  (向井雅明「鏡と時間」『ラカン入門』ちくま学芸文庫、2016年)
興味深いのは、「心理学」では「自我」という自らの十全なイメージがあるのに対し、「精神分析的解釈」では「自らの身体の寸断されたイメージ」しかないということだ。精神分析的に言えば、わたしたちの身体はばらばらのものとしてある。

わたしは現代川柳というのは人間の心を描くという「心理学的」なのではなくて、寸断された身体を描くという「精神分析的」なのじゃないか、とときどき思っていた。たとえば掲句では「親指のいっぽん」が「逃亡をはかる」。これはばらばらな身体のイメージだ。心理学的自我の十全な自己イメージがあるならば、「親指」が「いっぽん」だけ「逃亡」する必要はない。

集中には他にこんな身体句もある。

  両腕を一年干したままの窓  岩田多佳子
「両腕」を「一年干」すというのは身体がばらばらのまま時間が過ぎる風景そのものでもある。
先ほど引用した向井さんは続けてこんなことを言っていた。

  外部の鏡のなかのイメージは自分の身体を全体的な統一したものとして見せてくれ、子どもはそれを自分の自我の起源として取り入れるのだ。… 
  …ラカンによれば外部のイメージが自我として私をとらえる。すなわち、自我は人間の外部のイメージを基盤にしているのだ。ラカンはこれを疎外と呼んでいる。なぜなら人間はそれによって外部のイメージに取り込まれ、そのイメージを自分自身と思いこむからである。
   

(向井雅明、前掲)
身体がばらばらな人間が自我を得るにはどうしたらいいかというと、鏡のなかの自分をみてそこから身体がばらばらでない自分を見いだせばいい。ところがそれが自分が鏡という外側にしかないことなので、〈疎外〉なのだとラカンは言っている。わたしたちの自我は鏡という外側にあるのだ。
わたしたちの内部は外部にあるのかもしれないということ。それもまた現代川柳が得意とすることであるように思う。たとえば岩田さんのこんな句。

  仏壇の前髪一センチ切りに  岩田多佳子 
  仁淀川のわき腹ふかくシップ薬  〃 
川柳の世界においては、わたしたちの身体がばらばらになり逃走を繰り返す一方で、むしろ世界の方に実質的な身体があるようなのだ。「仏壇の前髪」や「仁淀川のわき腹」。前髪を一センチ切ったり、シップ薬を貼ったりするのはそれら〈身体〉がこれからも継続することをあらわしている。すなわち、〈生活〉しているわけだ。

こんなふうに川柳の世界では、人間はばらばらにこわれていく一方で、外側の世界はいきいきしているという非心理学的精神分析的風景が垣間見える。わたしはそれを、すごく、フシギに思う。「フシギな短詩」を連載していて久々にフシギと言ったような気がするが、ほんとうに不思議に思う。
川柳の世界ではどうしてこんなに世界のほうがいきいきするんだろう。

かつてフランツ・カフカはこんなことを言っていた。

  お前と世界のたたかいでは、世界に味方せよーー。
はじめてこの言葉を眼にしたとき、わたしは、いったいなにを言っているんだと思った。それじゃあ、〈鳥かごが鳥を探しにいくようなもんじゃないか〉と。

でも、今なら、わかる。現代川柳は、わたしと世界のたたかいを描くとき、世界に味方する。わたしをばらばらにし、世界をいきいきとさせるのだ。だから、今なら、わかる。そしてその意味において、いまだ、わたしは、まったくわからないのだ。にもかかわらず、

  不意にきて肩を叩いていく四隅  岩田多佳子
          
(「林の章」『ステンレスの木』あざみエージェント・2016年 所収)