えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい 笹井宏之
言葉を、手に入れるってどういうことなんだろう。ことば、ではなくて、言葉を。
笹井さんのこの歌がいろんな読み方ができることはわかる。わかるけれど、今回はこの歌を〈がまん〉という観点から読んでみたい。
この歌の構造に着目してみよう。
すぐに気がつくのは、「えーえんとくちから」というひらがなの文がまったく同じかたちで二度反復されたあとに「永遠解く力を下さい」と漢字分節の文で終わることだ。つまりこの歌では、「えーえんとくちからえーえんとくちから/永遠解く力を下さい」という〈ひらがな〉から〈漢字分節〉へのとつぜんの移行に決定的な〈転機〉がある。
わたしはそれをこんなふうに考えてみたいと思う。
〈ひらがな〉の世界に、〈がまん〉ができなくなったこと。
〈ひらがな〉の世界に居続けることに〈がまん〉ができなくなったら、耐えられなくなったから、語り手は〈漢字分節〉の世界に移行した。
〈漢字分節〉の世界とは、意味分節の世界である。みてみればわかるように「えーえんとくちから」の表記では、「永遠解く力」なのか「永遠と口から」なのか「『えーえん』と口から」なのか意味分節は揺れている。でも漢字表記でみれば、意味は一目瞭然である。ひとめでわかるけれど、そのせいで、〈ゆれ〉はなくなってしまった。
そのことを少し図解してみよう。
えーえんとくちから=えーえんとくちから「えーえんとくちから」は「えーえんとくちから」と鏡のようなペアリングになっている。それはまるで鏡のなかに自分自身を見ているナルシシズムの赤ちゃんの世界であり、想像的な世界(想像界)でもある。お母さんに抱かれた赤ん坊のように、「えーえんとくちから」は「えーえんとくちから」に抱かれている。
(鏡像イメージの融合する世界=赤ちゃんの世界=想像界)
↓
永遠解く力を下さい
(言葉/意味の分節される世界=大人の世界=象徴界)
ところが先ほど述べたように「赤ちゃん」の世界はとつじょ転機をむかえる。赤ちゃんの世界=ひらがな表記の想像的なゆれの世界にがまんができず、漢字の世界=大人の世界=象徴の世界=言葉の世界へと駆け上がるのだ。つまり「永遠解く力を下さい」と。
思想家のラカンを解説した本で精神科医の斎藤環さんはこんなことを言っている。
要するに、言葉=象徴を手に入れるっていうのは、そういうことなんだ。そばにママがいないという現実を耐えるために、「ママの象徴」でガマンすること。「存在」を「言葉」に置き換えることは、安心につながると同時に、「存在」そのものが僕たちから決定的に隔てられてしまうことを意味している。僕たちはこの時から「存在そのもの」、すなわち「現実」に直接関わることを断念せざるを得なくなったんだ。
「言葉」を手に入れてしまうということは、その「言葉」で指し示しているものから徹底的に《疎外》されてしまうことである。逆説的だが、わたしたちは、「永遠解く力を下さい」と言った瞬間(その言葉を手に入れた瞬間)、「永遠解く力」から《疎外》される。
(斎藤環「「シニフィアン」になじもう」『生き延びるためのラカン』バジリコ、2006年)
だから「えーえんとくちから」というひらがなのぐるぐるした想像的循環に《がまん》ができなくなったしゅんかん、言葉が、意味が、手に入れたくなってしまったしゅんかん、語り手が《永遠》から追放されてしまったこと。ここにあえていうならば、《言葉》を手に入れてしまったひとの構造的悲しみがあるのではないかと思うのだ。
語り手は「永遠解く力」を象徴的には手に入れられても、「現実」的には手に入れられなかった。なぜなら、「永遠」とは絶対に分節できないものだからだ。いやもしかしたら「えーえんとくちから」の状態でいつづけたときこそがいちばん「解く力」に近い状態だったのではないか。
でも、一方で、こんなふうにも思う。ひとはそんなふうに「現実」や「えーえん」をあきらめて、「言葉」を、「意味」を、ひとつひとつ手に入れて「大人」になるのだと。
ひとは「えーえん」=非意味に耐えられず「大人」になる。「えーえん」をあきらめて、「永遠」を手に入れるのだ。「えーえん」の代わりに。
そう言えば、「永遠」の「永」という漢字は、「氷」という漢字に似ている(「永」と「氷」も鏡像イメージ!)。意外なことだが、「えーえんとくちから」の《がまん》できずに大人になってしまった「永遠解く力」の歌は、同歌集内のこんな「氷」のやはり《がまん》できなかった歌と響きあっているかもしれない。すなわち、
あとほんのすこしの辛抱だったのに氷になるだなんて ばか者 笹井宏之
(『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』パルコ・2011年 所収)