2016年10月14日金曜日

フシギな短詩49[壇蜜]/柳本々々


ノックあり 扉開けども 姿なく ふと爪先に 瀕死のカナブン  壇蜜
壇蜜さんの連作「世田谷の善き友たち」には「友たち」と語られながらも奇異な点にすぐに気がつく。〈人〉がいっさい出てこないのだ。

  まどろみに 猫の背中を ついと撫で 産毛の湿りで 雨かと悟る  壇蜜 
  何処から 逃れてきたのか 松の枝に カナリヤ止まる 宵の境内  〃

「カナブン」や「猫」、「カナリヤ」(他に連作内には「小魚」「蚊」が出てくる)。この連作において「友」というのは明らかに動物や虫、鳥、魚などの〈生物〉のことである。語り手の〈わたし〉以外にこの連作に〈人間〉が出てくることはない。

ここで少しこれら〈生物〉たちがどのような働きをこの連作でなしているのかに注意をむけてみよう。掲出歌をみてほしい。

語り手が「ノック」で「扉」を「開け」た先に見たのは「(人間の)姿」ではなくて、「瀕死のカナブン」だった。ここで「カナブン」は語り手に扉をあけさせる働きをしている。内と外の境界に連れ出したのは「カナブン」なのだ。

この観点から他に引用した短歌もみてみよう。「猫の背中を」「撫で」た語り手は「産毛の湿りで」「雨かと悟る」。つまり語り手はいま、雨が降る前/後の境界にたちあっている、「猫」を介して。

「宵の境内」に「何処から」か「逃れてきた」「カナリヤ」も内と外の境界を破砕する機能を有するだろう。「松/待つ」(掛け詞)の枝に〈外〉からやってきた「カナリア」が止まることにより語り手の〈待ちつづける〉閉鎖されたシステムは崩れるかもしれない。「境内」というのは文字通り〈《境》界の《内》側〉という意味だ。「境内」=〈内側〉に外部をもたらす「カナリア」。

こうやって考えてみると、これら〈生物〉たちが語り手にとってなぜ「善き友たち」なのかわかってくるはずだ。それは〈内部〉にとどまる語り手に〈外部〉を運んでくるからだ。その意味で語り手にとっては「友」なのである。

ここには〈友人〉とはいったいなんなのかという端的な定義がある。〈友〉とは、そのひとがどういう人間なのか、〈だれ〉なのかが問題なのではない。それは、〈人間〉でなくてもいいのだ。〈だれ〉でもかまわない。〈生物〉でも〈本〉でもいい。問題は、「友」が「わたし」に〈外部〉をもってやってくるということなのだ。内部で待ちつづけるわたしに「外」を端的に指し示してくれること。それが「友」である。それをわたしは壇蜜さんの連作から学んだ。

そういえばキルケゴールはこんなふうに言っていた。「私の通信は友情によって運ばれてゆく」と。
「友」とは、わたしを「外」に運んでくれるひとのことだ。ともだちってなんですか、ときかれたら、わたしはこれからは自信をもって、そう、答えようと、おもう。

          (「世田谷の善き友たち」『ユリイカ』2016年8月 所収)