2016年10月18日火曜日

フシギな短詩50[ミムラ]/柳本々々


  チッという音の棘だけ抜けなくて舌打ち女性を枕に浮かべ  ミムラ
ミムラさんの連作「記憶を浚うとふと底にざらつく、日々の澱」は音にあふれる連作である。

  パサついた昨日のパンに噛りつく再燃涙に珈琲まずい  ミムラ 
  雨受けて川面に雫さんざめく合羽のフードが音響装置  〃
  米散った深夜のキッチン立ち尽くす五合分増す疲れに沈み  〃

連作タイトルにあるように「日々の澱」のような〈ものうさ〉のトーンに連作が支配されるなか、その連作内を象徴として貫いていくのが〈音響〉である。

連作内に奏でられる音響。「チッ」という舌打ち、「パサついたパン」、「さんざめく」雨と「合羽のフード」の「音響装置」、「五合分」の「米」がキッチンに落ちるときの〈響き〉。連作タイトルにもそもそも「ざらつく」という「ザラ」という音が響いている。

この連作内を貫いていく〈音・響〉はいったいなんなのだろう。

ヒントになるのはタイトルにある「記憶」である。どうも「音」は「記憶」と関わりがあるらしいのだ。
掲出歌をみてみよう。「チッという音の棘」と語り手は表現している。「音」ではなく、「音の棘」だ。つまりそれは語り手に刺さるものであり、抜かなければ傷つくものである。なじむものではなく、語り手にとって「音」は異物なのだ。しかも、痛い。「抜けなくて」というのは「(抜こうとしたけれど)抜けなくて」という諦めでもある。その「音の棘」を介して「枕」もとに「舌打ち女性」がやってくる。もちろんそれは「記憶」としてやってくるのだ。

結論を、言おう。〈音〉とは、わたしがコントロールできない〈記憶〉なのだ。ひとは思い出したいことを思い出して、思い出したくないことは思い出したくないものとして抑圧するかもしれない。でも〈音〉とセットになった記憶はちがう。「チッ」という音が響いたしゅんかん、わたしは「舌打ち女性」を思い出すのだ。というよりも、記憶がわたしに思い出させる。わたしの意志=意思に関係なく。

〈音〉とはわたしが制御できないものなのだ。眼を閉じることはできるが、耳を閉じることはできない。だからこそ、音は「日々の澱」のように「記憶」の「底」に「ざらつ」きとして溜まっていく。

短歌では一般に〈音のきもちよさ〉が追求される。〈舌のここちよさ〉という評が出てくるのは短歌というジャンルならでは、だと思う。しかし短歌を〈音のきもちわるさ〉からも考えてみたいと思ったりもする。短歌は〈音のきもちよさ〉だけでなく、〈音のきもちわるさ〉も考えることができうるジャンルだともおもうから。

その端緒が、このミムラさんの連作には、あるようにおもう。音と、記憶と、身体と、生きることの関係。なにげなくわたしたちが口にしてなおざりにしている音と体と記憶の「日々」の内実とは、実はそういったものではないのか。

〈きもちよさ〉だけでなく、〈きもちわるさ〉に敏感であるためにはどうしたらよいのか。そんなことを、いま、もう、この文章が終わっていくんだなと思いながらも、終わっていくきもちよさをなんとかきもちわるさにできないかなとかんがえながら、考えている。



          (「記憶を浚うとふと底にざらつく、日々の澱」『ユリイカ』2016年8月 所収)