頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
川名大さんがこの句の「白」に関して文化的側面からみた興味深い指摘をしている。
川名さんはこの句が生まれた昭和初期のモダン都市下の政治・文化情況を素描した上でその多面的情況としてのポジティブ・ネガティブどちらをも同時にあらわす色が「白」だったとつなげている。「『白』は純粋なもの、明るく輝くものなどのコードとして用いられる一方、空虚感や虚無感など負のコードとしても用いられた」。
円本ブーム・ラジオ放送・映画・レコード・デパートなどメディアを中心とする文化・芸術・娯楽などのモダンなポジティブな面。他方、三・一五事件(日本共産党弾圧)・世界恐慌による不況、就職難、農村の疲弊・治安維持法・満州事変・五・一五事件(犬養首相射殺)など政治経済のネガティブな面。こうした多面的なモダン都市の相貌を、小説家・詩人・歌人・俳人・川柳人たちは鋭敏な感性でとらえ、「白」や「青」として発光させた。
(川名大「高屋窓秋『白い夏野』」『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房、2010年)
モダン都市にあふれる光やモダンな文化住宅の色として「白」は、関東大震災以後の新しい思潮や風俗としてのモダニズムを表すための象徴となる色だった。そしてそれは「小説家・詩人・歌人・俳人・川柳人」にまたがっていた。
白い住宅
白い
桃色の貴婦人
白い遠景
青い空 北園克衛
植物の感じがひじやうに白いから何もおもはずに眠らうとする 前川佐美雄
白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう 斎藤史
この短詩にあらわれた〈色〉を同時代の文化的状況と接続させる視点は、後の時代にくだっても有益かもしれない。
たとえばかつてこの「フシギな短詩」の「村上春樹」の回で取り上げた色の歌。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書 穂村弘
(『ラインマーカーズ』小学館、2003年)
緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼 伊舎堂仁
(『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)
赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着 木下龍也
(『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)
これらの歌には色がサイケデリックに叛乱しているのだが、「白」や「青」という〈単色〉がモダンをあらわす色だったならば、これらの〈色まみれ〉の歌は、そうしたモダンの状況が壊れ、ポストモダニズムとして価値観がばらばらになった文化状況の歌として読めるかもしれない。
モダンは合理性を、ポストモダンは非合理性を追求する。
「ラインマーカーまみれの聖書」は価値観が複雑化=多重化した人間の様相をあらわすだろうし、否定神学的にしか言い表せないような指摘不可能な色をもつ「鬼」はすでに「色」でなにかを象徴することが困難になったばらばらな時代を表すかもしれない。またそれを反転させた「徹子の部屋着」も同様に〈色のおびただしさ〉が逆説的に色のむなしさを描いている。
モダニズムが「頭の中」を「白い夏野」として単色であらわせるものだったとすれば、ポストモダニズム以降の短詩においては、〈色彩の叛乱〉という〈極彩色〉がわたしたちの「頭の中」をあらわしている。頭の中は極彩色の夏野となっているのだ。
しかし極彩色とは穂村さんの歌にいみじくも「きらきら」と書かれたようにそれは〈無色〉の〈光〉に近い。つまり、極彩色とはもしかしたら、なんの色でもないということかもしれない。ポストモダニズムが、なんの価値でもないことが、価値であったように。
光。現在のわたしたちは、光を、ある危機的な枠組みのなかで、意識しはじめているように思う。モダニズムの「白」は、光の明暗としての両義性があった。川名さんはそれを「溌剌とした発光と虚無的な発光」と呼んだ。しかし、いまのわたしたちにとって「光」とは、もう、溌剌さや虚無をも越えた《危機的》な発光である。
原子炉がこわれ泉は星だらけ 田島健一
(『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年)
(「高屋窓秋『白い夏野』」『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房・2010年 所収)