2017年4月27日木曜日

続フシギな短詩105[池田澄子]/柳本々々


  ピーマン切って中を明るくしてあげた  池田澄子

田島健一さんが『現代詩手帖』の連載「俳句のしるし」において池田澄子さんの俳句の特徴を次のように指摘している。

  氏の作風の特徴は、作者と読者の間に第三者的主体が想定される点にある。…口語独特の呼びかけは、直接読者へではなく想定された「誰か」に向けられる。…
  池田澄子は…〈他者〉に向けて「思い」を呼びかける。
   (田島健一「「読む主体」について」『現代詩手帖』2016年10月)

この田島さんの指摘した特徴は池田さんのピーマンの句を例にとるととてもわかりやすい。掲句の特徴は、「してあげた」にある。〈わたし〉が「誰か」に「してあげた」のである。「してあげる」でもない。それはちゃんとやってあげ〈た〉なのだ。すでに行為はおわっている。他者のためになにかをし終えたのだ。

池田澄子にとってピーマンとは他者を呼び込むための、オープン・スペースになっている。ピーマンを思い出してほしい。ピーマンの肉詰めというおいしい食べ物があるように、ピーマンの中は空洞になっている。そこに挽き肉を詰め込むこともできれば、発想を変えれば、他者を招き入れることだってできるはずだ。

ここで比較するためにこんな野菜の句をあげてみよう。

  玉葱を切るいにしえを直接見る  田島健一
   (『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年)

こちらはピーマンではなくタマネギを切っている。玉葱を思い出してみよう。玉葱はピーマンと違い、何層もの「葉」が肥厚し折り重なってできあがっている重層的な食べ物だ。空洞は、ない。語り手は玉葱を「切」ったあとで「いにしえを直接見」ている。まるで時をかける少女のように玉葱を切りながら時間の古層へとアース・ダイブしていく。

とくに「直接見る」の「直接」に注意したい。ここでは〈見る行為〉そのものがふだんのなにげなく見る行為とは少し変質している。語り手の〈見る行為〉そのものになんらかのダイレクトな変化が生じているのだ。

だからもし池田さんのピーマン句とあえて比較するなら、田島さんの玉葱句において他者化されているのは〈見る行為〉そのもの、すなわち〈見ているじぶん〉そのものである。

田島さんは池田さんの句を「想定された「誰か」に向けられる」と指摘したが、田島さんの句は「想定されなかった「自分」に向けられる」のだ。

他者に出会う方法はすくなくともふたつある。ひとつは、わたしの場所に他者を呼び込んでくること。ふたつめは、わたしじしんが他者になってしまうこと。

ちなみに掲句がおさめられた『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』の最後に掲載されている池田澄子さんの文章のタイトルは「書きながら出会う」である。池田さんにとってピーマンを切ることも、書くという行為そのものも、他者との〈出会い〉につながっている。

ところで池田さんの句でわたしがずっと何年も考えている句がある。

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

どうして夫が「他人」であったら「好き」なんだろうとずっと考えていた。でも田島さんの時評を通してはじめてわかったような気がする。それは、そのまま、だったのだ。答えはこの句のなかにちゃんと書いてあった。池田さんの俳句は他者とそのつど出会おうとしている俳句なのだ。だから相手はいつでも他者でなければならない。他人でなければならない。夫がもし「他人」であるならば、夫が「他人」であり続けるかぎり、毎日夫に出会える。だから答えはそのままだったのだ。「他人なので好き」。答えは、「他人なので」だからだ。書いてあること、そのままだったのだ。長いあいだ考えていたけれど、やっと、わかった。そう、田島さんが、教えてくれた。

          (『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』ふらんす堂・2010年 所収)