おにぎりをつくるみたいにわたしたちされてできたのかもしれないね 加賀田優子
『大阪短歌チョップ2』のテーマ「集」に投稿された加賀田さんの一首。
以前、このフシギな短詩において、俵万智さんと岡野大嗣さんのサンドイッチの歌を主体性をめぐって考えたことがあるが、この歌においてもおもしろいのは、あたかも「おにぎり」という集合体過密物としての食べ物が象徴するように、四つの主体性がおにぎりをつくるようにぎゅっぎゅっと「集」められていることだ(サンドイッチは「重」ねられた食べ物であるのに対し、おにぎりは「集」められた食べ物だ)。主体性を箇条書きしてみよう。
ひとつめの主体性は、「Xがおにぎりをつくる」
ふたつめの主体性は、「わたしたちはされた」
みっつめの主体性は、「わたしたちはできた」
よっつめの主体性は、「~かもしれないねとわたしは思う」
これらよっつの主体性がおにぎりのように一首にまとめられたのがこの歌である。しかもそれらはすべて主体性のレベルがちがう。ひとくちずつ食べるごとに味覚が微妙に変化していくおにぎりのように(おにぎりとはどこからどう食べるかで具材への接近の仕方が変わり味が変わる空間的な食べ物だ)。
それではよっつの主体性の内実をみてみよう。ひとつめは、超越的な主体がおにぎりをつくっている。このXには、「神様」が入るかもしれないし「親」が入るかもしれないし「遺伝子」が入るかもしれないが、そのどれでもない。なにか、世界のずっと上にある、巨大な主体である。
その巨大な主体性から、ふたつめの、「された」「わたしたち」という、「わたしたち」の受動的な主体性に主体がおりてくる。能動→受動と主体の移行が起きた。
そしてみっつめの「できた」「わたしたち」への変化。「できた」という能動でも受動でもない、生まれてしまったという生成。能動→受動→生成。
そして最後、この歌の結語の「ね」という問いかけ・同意の終助詞。〈わたし〉は《能動→受動→生成》のみっつの主体変化を一首にまとめて〈あなた〉に同意を求めるという「主体性」をさいごにみせた。
こうしたよっつの主体性が〈それとなく〉込められた〈主体おにぎり〉の歌がこの歌だとおもう。だからテーマ「集」にぴったりの歌だ。これはレベルの異なる主体性が「凝集」された歌なのだから。
わたしは、かつて、サンドイッチとは、危機的な食べ物かもしれない、と述べた。サンドイッチはつねに分離の危険をはらむから。
しかし、おにぎりは、どうだろう。おにぎりは、そうかんたんには、分離しない。むしろ、できてしまったものが、分離できなくなってしまったことのほうが、問題なのだ。「されてできた」ものを引き受けなければならないことが。
おにぎりは。
おにぎりは、生成変化のふしぎを、引き受ける食べ物かもしれない。
たとえば、おにぎりの生成変化未満の歌。
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい 木下龍也
(『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月 所収)