2017年4月17日月曜日

続フシギな短詩102[まひろ]/柳本々々


 あいうえおかきくけこさしすきでしたちつてとなにぬねえきいてるの  まひろ 

ひとはたくさんしゃべることができるはずなのに、なぜひとはそれでもなお〈短いことば〉を選択することがあるのだろう。

その意味で、《短》詩は、どこかで、〈不能性(ごめんできないんだ)〉の文学でもある。

まひろさんの短歌をみてみよう。この短歌で伝達したいことは、「すきでした」の5音のはずだが、それが「あいうえおかきくけこさしす」の日本語の五十音にまぎれてしまう。そのために〈相手がよくわからない〉状況に陥ってしまう。いちばん肝心な「すきでした」の「す」が、「すき」の《す》なのか、「さしすせそ」の《す》なのかが、わからないからだ。

しかし、語り手は、「ねえきいてるの」と最終的にいらだちをみせた。わからなくしてわざわざしゃべったのに、だ。そして、この「ねえきいてるの」の「ね」さえもふたたび「なにぬねの」にまぎれてしまう。

だからこの短歌にはみっつの不能性がある。「すきでした」と〈そのまま〉言えなかったこと。「すきでした」を五十音の勢いのなかに隠してしまったこと。そしてそれから先のあなたへの問いかけもその五十音の流れのなかでそのまま言ってしまったこと。

このまひろさんの歌にあらわれた不能性は、安福望さんの描く絵のなかの不能性にも少し似ているな、と思った。

たとえば最近安福さんはよく宇宙を描いている。NEW PURE+でのギャラリートークのときに、「なぜさいきん宇宙が多いんですか」と宇宙の絵に囲まれながらきいたら、これはたまたま手持ちの画材の組み合わせでそうなったということである。宇宙の色があったから、宇宙を描いた。しかし、宇宙の色はたくさん使わねばならない。だから宇宙の色ばかりそのうち買うようになりました。画材店でその色がなくなっていかないか心配しています、と。

裏では宇宙のために泥臭く四苦八苦している安福望がいたが、ここでたとえば宇宙をよくモチーフにするクリスチャン・ラッセンと安福望を比較してもいいかもしれない。

ラッセンの描く宇宙は、宇宙そのまま世界である。宇宙即世界。ラッセンの描く宇宙はためらいがないし限定されていない。のびやかすきるほどに伸びやかである。海と一体化し、イルミネーションにあふれ、そこでイルカやシャチがはしゃいでいる宇宙である。

この宇宙には不能性がない。こう言ってよければ、この宇宙には可能性しかないのだ。

だから、ラッセンの絵がスピリチュアリティと結びつきやすいのも納得ができる。それは、《無限》の象徴でもあるからだ。幸福のさいげんの無さ。「毎日ぜんぶできるんだ」の世界。

(絵:安福望。「安福望個展・詩と愛と光と風と暴力ときょうごめん行けないんだの世界」案内パンフレットの表紙から。)

しかし、安福望の宇宙は限定的である。それはラッセンの海=宇宙とは対照的に、ふちどられた池=宇宙である。桜に囲まれた池のような宇宙。その池におとなしく舟を浮かべた人間と熊がいる。かれらは、はしゃいでいない。宇宙もかれらもどことなく抑圧されているようにも、みえる。安福望の宇宙は、まひろさんの「すきでした」のようになにかにまぎれてしまった不能性でもある。なぜかれらには表情がないのだろう。かれらはこれからどこにゆくのだろう。かれらにできることはなにがあるのだろう。

そのとき、どうして安福さんが、個展に「きょうごめん行けないんだ」などというずいぶんとネガティブな展示タイトルをつけたかが少しわかったような気がした。ラッセンだったらもっとポジティブなタイトルをつけるだろう。「プレシャス ラブ」「ドルフィン フリーダム」「エンドレス ドリーム」の彼の作品タイトルのような。愛、自由、夢。

まひろさんの歌にみられたように〈きょうごめん行けないんだ性〉は短詩にそれとなく〈もともと〉胚胎しているのかもしれない。ことばのすきまにまぎれこむようなかたちで。

ギャラリートークで、安福望さんが、学校に行けなくなった話をしていたのがきょうみぶかかった。なんの理由もなくある日ふっと学校に行けなくなってしまった。「きょうごめん行けないんだ」になった。でもあるとき、1995年だが、とつぜん、「みんながきょうごめん行けないんだ」という状況になった。そのときになぜか不思議とふたたび学校に行けるようになった。ふっ、と。その理由がなぜかはわからないけれど、と。

まひろさんの短歌では、「ごめん言えないんだ」のなかでもきちんと「すきでした」と言うことは言えている。いろんなことが言えなくなる状況のなかで、ふっと、言えてしまったこと。

不能性のなかで、それまでなかった強い可能性がうまれる場合がある。

阪本順治監督の映画『顔』を、思い出した。

          (『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』キノブックス・2015年 所収)