狼星をうかゞふ菊のあるじかな 宮沢賢治
よだかは泣きそうになって、よろよろと落ちて、それからやっとふみとまって、もう一ぺんとびめぐりました。それから、南の大犬座の方へまっすぐに飛びながら叫びました。
「お星さん。南の青いお星さん。どうか私をあなたの所へつれてって下さい。やけて死んでもかまいません。」
大犬は青や紫や黄やうつくしくせわしくまたたきながら云いました。
「馬鹿を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。おまえのはねでここまで来るには、億年兆年億兆年だ。」そしてまた別の方を向きました。
(宮沢賢治『よだかの星』より)
『よだかの星』において、直接「美しい」と表現されている星は、3つ。オリオンの星と、よだかの星、そして、この「大犬」、つまりおおいぬ座のα星、狼星(シリウス)である。その中でも特に、狼星の描写は美しい。
掲句の持つ、美しさの中のどこか不穏な予感。この句で繰り広げられる世界は、他の多くの菊の句の持つ抒情の世界、雅の世界とは全く異なるものである。狼星だけでなく、菊も共に、儚い光を放っているかのような、そんな錯覚さえ覚える。
「菊のあるじ」は何を思っているのだろう。「あるじ」という響きの重厚感は、そのまま人間としての重みも感じさせる。一方で、どれだけ手を伸ばしても届かない世界、自分に対してあまりにも大きすぎる世界への、諦念を通り越した憧れも感じさせる。「大宇宙に対してあまりにもちっぽけな人間」という単純な構図では割りきれないこの絶妙な平衡感覚は、「狼星」と「菊のあるじ」という取り合わせの妙でもあり、詩人・宮沢賢治の妙なる調べから生み出されるものであると言えよう。
ところで、『星めぐりの歌』に「あをいめだまの小いぬ」という詞がある。一説には、これは狼星を持つおおいぬ座のことだとも言われるが、それが何であれ、宮沢賢治は狼星に対しなにか特別の思いを持っていたのかもしれない。そう考えると、掲句もより、宮沢賢治にとって特別なものに見えてくる。
《出典:石寒太『宮沢賢治の全俳句』(2012,飯塚書店)》