2014年12月11日木曜日

貯金箱を割る日 7 [宮沢賢治] / 仮屋賢一


おもむろに屠者は呪したり雪の風   宮沢賢治

 家畜を屠する。それが、その人の仕事。奪われる命への同情、命を奪うことへの懺悔といった、そういう単純なものではないのだろう。「おもむろに」から伝わるゆっくりとした動きが、非情な響きすら持つ「屠者」に人間的な魅力を与える。一方で、「呪す」という超自然的な行い。どこか特殊で異質な振る舞いが、ほかの人々とは違う、「屠者」という人間のアイデンティティ、そして固有の世界観を作り上げている。そんな世界をよぎる、「雪の風」。雪ではなく、雪を孕んだ風。この語の斡旋により、作品に世界の広さ、大きさが与えられ、また、モノトーンの暗い語りのなかに一つの温もりが与えられるようである。一体、その温もりの正体は何なのだろう。

宮沢賢治はベジタリアンであったことは有名だろう。肉食に関するテーマは彼の作品に多く表れており、『フランドン農学校の豚』では豚自身が、自分が屠されることに対する死亡承諾書に調印し、殺されるまでの苦悩が描かれているし、『二十六夜』では梟に対し肉食の罪が説かれる。また、『よだかの星』では

ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。
(宮沢賢治『よだかの星』より)

と、主人公のよだかが「命を奪う/奪われる」という行為を身をもって意識した途端、自身の境遇も相俟って、突如として嫌気がさし諦念を抱いたかのように振る舞う。

 とはいえ、宮沢賢治の作品では肉食が全否定されているわけでもなく、個としての人間は、一貫した主張を持ちながらも社会の中で肉食を否定も肯定もしきれないような矛盾した存在であるといったような描かれ方をしている。

「……畢竟は愛である。あらゆる生物に対する愛である。どうしてそれを殺して食べることが当然のことであろう。
 仏教の精神によるならば慈悲である、如来の慈悲である完全なる智慧を具えたる愛である、……」

(宮沢賢治『ビジテリアン大祭』より)

 そこで唯一の拠り所となるのが宗教であり、また、愛なのであろう。社会の中で、自らの内部に矛盾を孕む複雑な存在としての個人、最後にいきつくのは生物への愛。掲句も、もしかしたらこのような宮沢賢治の思想世界が垣間見える作品なのかもしれない。だとしたら、先に述べた「温もり」の正体というのは、屠者の生き物に対する、いや、宮沢賢治自身の生きとし生けるものに対する、惜しみない愛情なのかもしれない。

《出典:石寒太『宮沢賢治の全俳句』(2012,飯塚書店)》