たましひも入りたさうな巣箱かな 藺草慶子
何年か前の夏、短い避暑として清里高原を訪ねた。清泉寮に泊り、翌朝は周囲の自然歩道を散策した。歩道から見える森の中だけでなく、施設の近辺にもリスや野鳥のための巣箱がちょいちょい設置されていた。8月なかばでも標高1300mの朝夕はかなり涼しい。掲句を見て思い出したのは、高原の森のかたすみに設えられた巣箱だった。
いつか自分のたましいが入ろうというのか、そのへんにただようたましいが入ってしまいそうに居心地のよさそうなものなのか。たましいの「容れ物」としての巣箱は静かな空間を思わせる。鳥のなかには以前の住人(住鳥か)の巣材が残っているところには巣作りをしないものもいる。空き家が増加し続けるかつてのニュータウンに住む身からすると、人間の「巣」は地上の愚かな残骸だよなあ、という思いがする。
掲句の収録されている 『櫻翳』は今年刊行された著者の第4句集。静かな視線が投げかけられ、五感の用いられ方がじわっと後からきいてくる印象がある。句集からもう少しひいてみる。
十人の僧立ち上がる牡丹かな
わが身より狐火が立ちのぼるとは
納めたる雛ほど遠き人のあり
火の映る胸の釦やクリスマス
額づけば海の匂へる踏絵かな
白靴や奈落といふは風の音
「わが身より狐火が立ちのぼるとは」あまり驚いていないように見えるところが愉しい。何かが出そうで、出たと思ったら狐火だった、まあ、ぐらいの肝の据わった感がある。「納めたる雛ほど遠き人のあり」、憧憬、距離感の喩として年に一度取り出す「雛」が用いられている。ここでの「雛」は不滅の存在でもあるように思う。
〈『櫻翳』ふらんす堂/2015所収〉