大凧の魂入るは絲切れてのち 髙橋睦郎
畳一畳、とまでいかなくとも、大ぶりの凧を上手に揚げるには力とコツが要る。紙であるのに、上手にあがった姿はおのずから自由に動いているふうにも見える、凧は単純にして愉しい遊びである。
おのずから動いているふうに見える、けれども、凧の魂が呼び覚まされるのは、糸が切れ、人間の力の及ばぬところとなった後だという。重力にしたがってあとは落ちるばかり、そこに凧の自由?がある。落ちるばかりなどというのは、人間の側の小賢しい見方であって、凧揚げなどというものは、そもそも人間側は「揚げさせていただいている」のかもしれない。空に行かねばならぬ、という、凧の意思に操られているのはこちらの側ではないのか。
『稽古飲食』は前半部分が句集『稽古』、後半部分が歌集『飲食』となっている句歌集である。飲食にまつわる短歌のみの歌集『飲食』を上梓しようとしたところ、安東次男氏のすすめにより句集と対にする仕儀となったことが巻末の「佯狂始末」に綴られている。
句集部は八百万の神を引き合いに出すまでもなく、あらゆるものの声が、昼夜も明暗もいとわず、そこかしこから聞こえてくるような、季感と人事の間隙をすくいとったような句が並ぶ。「何」とも名の知れぬ、この世のものかどうかもわからない何者かの気配が、読み進む合間にすっ、と感じられる。
黴の秀の靡きに二百十日來る
山梔子のくたるるもなほ奢りかな
ななくさや落ちて暗渠の水のこゑ
世阿弥忌のこの波がしらいづくより
大甕に湛へて後の無月かな
早乙女が足もてさぐる泥の臍
一方、歌集部は悉くデモーニッシュな世界がつらぬかれ、濃味についついページがすすむ。
うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春立つ卵
食慾も性慾も過ぎずは浄し然言へ過ぐるゆゑ慾とこそ
飲食の入り來る道の反(かへ)りをば出で行くなれば腥し言葉
蓮食ひのうからならねどこの頃や穴(あ)開きしごと繁(しじ)に忘るる
一冊の書物の、前半と後半のコントラストの妙を味わう、などという生易しい惹句が跳ね返されてしまいかねない、しかし何か癖になる、中毒性のある本である。
〈『稽古飲食』不識書院/1988〉