2015年12月17日木曜日

人外句境 28 [小川軽舟] / 佐藤りえ



夕闇に冷蔵庫待つ帰宅かな  小川軽舟

一人暮らしの部屋にひとりで帰る。留守宅で待っていてくれる家財道具のうち、冷蔵庫はもっとも頼もしい存在と見なしてよいと思われる。一人暮らし用ではさほど巨大ではないかもしれない(2ドア、140センチほどの製品もあるし)が、通電して食品を冷やしていてくれること、人並みの大きさと存在感を有していること、扉を開ければ庫内灯がともることなど、実に頼りがいのあるものである。ここでの「冷蔵庫」は擬人化とみなすより、そのものが待っている、と受け取りたい。人には無理だが、冷蔵庫ならビールを冷やしていてくれる。腹の中で。

『掌をかざす』はふらんす堂のホームページ上に掲載された俳句日記をまとめた句集である。この日記は一日一句ずつ、きっちり365日更新されていくもので、2007年の東直子氏の短歌日記を皮切りに、年替わりで歌人・俳人が担当している。

句集の構成はホームページ掲載当時のままに、ページごとに一句とその日の短い日記が綴られている。こうした構成により、小川軽舟氏が当時単身赴任の独居であったこともわかった。句集からもう少し句を引く。

 爆竹を痛がる地べた春近し 
 梅散つてこの世のどこか軽くなる 
 白梅や死んでから来る誕生日 
 暗闇は光を憎みほととぎす 
 虫しぐれスターバクスの人魚照る 
 人間が人形に見ゆ冬の雨

「爆竹を痛がる地べた春近し」は春節の日の句。「白梅や死んでから来る誕生日」は虚子忌に詠まれた句である。「人間が人形に見ゆ冬の雨」は四谷シモン展を訪ねた日の一句。日記の記述と俳句との距離感もさまざまである。ページ一句組みの句集とはまた違った、歩調をゆるやかに読むことができる本である。

インターネットが一般に普及した、その開始時期をいつからと考えるか、定説といっていいほどに時期が定まっているとは思えないが、常時接続が広まった2000年代はじめ頃から、と考えたとしても、すでに10年以上の月日が流れている。通信速度の高速化、大容量化は進んだが、それによって詩歌の表現や伝播方法が大きく変質したのかというと、そうでもないのではないか、と、実感に照らし合わせて考える。

情報量が増えたとはいえるが、詩歌の見せ方そのものはインターネット黎明期と大きく違ってはいないのではないか。特に新しい技術を要しているわけではない、短歌日記、俳句日記といったコンテンツが今成り立ち、紙の本へとゆるやかにつながりを見せているのは、毎日更新する、という書き手と編集側の地道な努力によって培われているものである。
何ができるか、どうするか―と、「何を見たいか」が如何に噛み合うか、なのだろうか。短歌日記、俳句日記には即時性と一貫性の綾があると思う。

〈『掌をかざす』ふらんす堂/2015所収〉