掻き分けて掻き分けている春の指 小倉喜郎
句集のタイトルは『急がねば』。おもしろいタイトルだ。語り手は、いま、急いでいる。あるいは、急ごうと思っている。急がなければならない状況に身をおいている。なんらかの〈多忙のプロセス〉に語り手はいるのだ。
掲句はまさにその〈プロセス〉にある。「掻き分けて」いる。「掻き分けて」いる。大事なことなので二回掻き分けている。たぶん、二回掻き分けたのだから、三回目もあるだろう。四回目も。五回目も。
しかも、指だ。語り手が注目しているのは「指」という身体のパーツである。「春の指」で「掻き分けている」対象そのものに注目するのではなく、今「掻き分けている」みずからの「指」そのものに意識を注いでいるのだ。
つまりこう言い換えることもできる。語り手の意識のなかで「掻き分け」られているのは、〈今まさに掻き分けている〉「指」そのものなのだと。
「掻き分け」て「掻き分け」て「掻き分け」ているなんまんぼんもの「指」が語り手の意識のなかでひしめいている。「掻き分け」る対象はひとつでも、「掻き分け」る「指」の〈行為〉に着目してしまった語り手にとって行為は〈えいえん〉に続くだろう。
「春の指」は、〈意識の繁殖〉のなかにある「指」でもある。意識のなかでぞろぞろと生えていくゆび。それはもう自分のゆびではなく、なかばモノとしてのゆびだ。うっそうと生えているゆびだから〈意識のなかで〉掻き分ける指そのものを掻き分ける。意識のひだをめくってもめくっても意識がやってくる。それだから、やっぱり、
掻き分けるのだろう。
ゆびきりの指が落ちてる春の空 坪内稔典
この「指」とおなじ位相にある「指」のようにも思う。それはすでに意味的統合から乖離してしまった指だ。だれのものでもない。あえていうならばそれは「春」が所持している「指」。
ただ、この句の語り手と小倉さんの句の語り手が違うのは、語り手がなんだか〈急いでいた〉ことだ。語り手は〈多忙さ〉のなかで「掻き分け」ることをやめない。
永遠に続く自販機桃の花 小倉喜郎
「自販機」のような自動的なアクションの装置が「永遠に続く」風景。その「永遠」のなかで語り手は「急」いでいる。なにかが、欠けている。なにかが、うしなわれている。統合しえない〈部分の風景〉。
立春の箱から耳を取り出して 小倉喜郎
緑陰に脳がいくつも落ちていたよ 〃
語り手にとって〈身体〉はわたしを完成させる部位としてあるよりも、〈そこらへん〉に落ちている未完のモノだ。この句集のなかで身体は〈バラバラ〉であり〈未完成〉なのである。
だからこんなふうにも思う。語り手は身体を完成させるために「急」いでいるのかもしれないと。それならば私にもわかる。私もきっとこう言うはずだ。
「急がねば」。
でも、語り手は、人間の身体のパーツではなく、象のパーツを買いに行ってしまう。
待春や象のパーツを買いに行く 小倉喜郎
だから私は再度いうだろう。「いや、ちがうんだ。別の仕方で《急がねば》」。
(『急がねば』ふらんす堂・2004年 所収)