2016年4月1日金曜日

フシギな短詩10[小倉喜郎]/柳本々々



  掻き分けて掻き分けている春の指  小倉喜郎

句集のタイトルは『急がねば』。おもしろいタイトルだ。語り手は、いま、急いでいる。あるいは、急ごうと思っている。急がなければならない状況に身をおいている。なんらかの〈多忙のプロセス〉に語り手はいるのだ。

掲句はまさにその〈プロセス〉にある。「掻き分けて」いる。「掻き分けて」いる。大事なことなので二回掻き分けている。たぶん、二回掻き分けたのだから、三回目もあるだろう。四回目も。五回目も。

しかも、指だ。語り手が注目しているのは「指」という身体のパーツである。「春の指」で「掻き分けている」対象そのものに注目するのではなく、今「掻き分けている」みずからの「指」そのものに意識を注いでいるのだ。

つまりこう言い換えることもできる。語り手の意識のなかで「掻き分け」られているのは、〈今まさに掻き分けている〉「指」そのものなのだと。

「掻き分け」て「掻き分け」て「掻き分け」ているなんまんぼんもの「指」が語り手の意識のなかでひしめいている。「掻き分け」る対象はひとつでも、「掻き分け」る「指」の〈行為〉に着目してしまった語り手にとって行為は〈えいえん〉に続くだろう。

「春の指」は、〈意識の繁殖〉のなかにある「指」でもある。意識のなかでぞろぞろと生えていくゆび。それはもう自分のゆびではなく、なかばモノとしてのゆびだ。うっそうと生えているゆびだから〈意識のなかで〉掻き分ける指そのものを掻き分ける。意識のひだをめくってもめくっても意識がやってくる。それだから、やっぱり、

掻き分けるのだろう。

  ゆびきりの指が落ちてる春の空  坪内稔典 

この「指」とおなじ位相にある「指」のようにも思う。それはすでに意味的統合から乖離してしまった指だ。だれのものでもない。あえていうならばそれは「春」が所持している「指」。

ただ、この句の語り手と小倉さんの句の語り手が違うのは、語り手がなんだか〈急いでいた〉ことだ。語り手は〈多忙さ〉のなかで「掻き分け」ることをやめない。

  永遠に続く自販機桃の花  小倉喜郎

「自販機」のような自動的なアクションの装置が「永遠に続く」風景。その「永遠」のなかで語り手は「急」いでいる。なにかが、欠けている。なにかが、うしなわれている。統合しえない〈部分の風景〉。

  立春の箱から耳を取り出して  小倉喜郎

  緑陰に脳がいくつも落ちていたよ  〃

語り手にとって〈身体〉はわたしを完成させる部位としてあるよりも、〈そこらへん〉に落ちている未完のモノだ。この句集のなかで身体は〈バラバラ〉であり〈未完成〉なのである。

だからこんなふうにも思う。語り手は身体を完成させるために「急」いでいるのかもしれないと。それならば私にもわかる。私もきっとこう言うはずだ。

「急がねば」。

でも、語り手は、人間の身体のパーツではなく、象のパーツを買いに行ってしまう。

  待春や象のパーツを買いに行く  小倉喜郎

だから私は再度いうだろう。「いや、ちがうんだ。別の仕方で《急がねば》」。


          (『急がねば』ふらんす堂・2004年 所収)