2016年11月12日土曜日

フシギな短詩57[西原天気]/柳本々々



  数ページの哲学あした来るソファー  西原天気


わたしはこの西原さんの一句からはじめて俳句にきょうみをもって、俳句を読みはじめた。俳句って、なんだろう、と。

そもそもこの句は俳句なのだろうか。季語はないし、どことなく詩的でもある。それでもこの句は句集のなかに配置された。だとしたら、この句の俳句性とはなんだろうか。

わたしはそれは《深入り》しなかったことにあるように思う。哲学を「数ページ」でやめてしまったこと。哲学することを頓挫(とんざ)したこと。もくぜんの哲学をやめたこと。それがこの句の俳句性なのではないか。

句集「あとがき」でこの句について西原さんが触れているので引用してみよう。

  根岸での“句会デビュー”でつくった三句のうちの一句が、この句集『けむり』に収めた〈数ページの哲学あした来るソファー〉という句。初心者らしく、みごとに季語を欠いている。なぜソファーなんてものが頭に浮かんだのかというと、実際、その次の日に、注文していたソファーが届く予定だったから。そのソファーはいまも使っている。 
  (西原天気「あとがき」『けむり』西田書店・2011年)

やってきた〈そのまま〉を〈そのまま〉五七五定型におとしこむこと。西原さんは思いがけなく参加した句会が自分にとっての初句会であったことをこの「あとがき」で書いているのだが、実は思いがけなくやってきたのは「ソファー」の方ではなく、「俳句」の方だったのではないか。「数ページの哲学」という中途にもかかわらず思いがけなくやってきてしまった「俳句」。それが西原さんの俳句だったようにも思うのだ。俳句は、いつもとつぜん、やってくる。ソファーよりも素早く。「身に覚え」もなく。

  身に覚えなきマンゴオの届きけり  西原天気

その意味では西原さんの俳句は、〈待っている〉俳句とも言える。これからどんな素晴らしく、くだらなく、崇高で、過激で、だるく、斬新で、陳腐で、軽やかな「身に覚え」のあってないようなことがやってくるのか。最近の西原さんの俳句。

  葡萄ひとふさ電線を見て過ごす  西原天気 

  (「過日」『はがきハイク』第15号・2016年11月)

見て過ごす「電線」は、「素晴らしく、くだらなく、崇高で、過激で、だるく、斬新で、陳腐で、軽やか」だ。そしてそれは、俳句も、だ。

それを一言でいうなら、〈ふっ〉になるだろう。西原さんにとって俳句とは〈ふっ〉としたものだった。だからこそ哲学は「数ページ」なのだ。それは「数ページ」で構わないのである。〈ふっ〉なのだから。それは曖昧さとしての〈数ページ〉としか名付けられないような〈ふっ〉なのである。そしてなにより大事なのは、「哲学」という思想をこえて「ソファー」というモノがやってくることだ。抽象物ではなく、届くのは、モノなのである。たとえば、「桃の実」。

  曇天を大きな桃の実と思ふ  西原天気
   (「過日」前掲)

「曇天」という抽象物に思考を深入りさせず、「曇天」を「桃の実」と「思ふ」ことで思想をモノによって断ち切らせること。「桃の実」というモノは、「曇天」の空によせる〈モノ思い〉をストップさせるだろう。そしてそれが〈俳句〉でもあるのだ。わたしたちは考えるために俳句をつくるのではなくて、考えることを考えないために、つまり、考えないことを考えるために、俳句をつくるのだ。

だから俳句にとって哲学は「数ページ」でいい。それは深入りするものではない。もっといえば「数ページ」でやめてしまって他のことを考えはじめてもいい。まったく、ぜんぜん関係ない、明日のソファーのことを考えはじめてしまってもいい。そうした《語らない挙措》こそ、俳句だからだ。

だから語り手は明日ソファーがきたら、そのときはそのときでまたべつの《あしたのソファー》をみいだしていくにちがいない。そして強いて言うならば、それこそが《俳句がつちかう哲学》なのだ。

集中しないこと。奥に向かわないこと。手前にとどまること。

  あかさたなはまやらわをん梅ひらく  西原天気

わたしはそこから俳句に入った。けむりのなかに入るように、手前や奥を見失いながら、それでも俳句の《奥深さ》=《手前深さ》を感じながら。

だから、まだ、手前にいる。そこが俳句の《奥》のような気がするから。

星ひとつ流るる電子レンジかな  西原天気
          
 (「マンホール」『けむり』西田書店・2011年 所収)