2016年11月8日火曜日

フシギな短詩56[雪舟えま]/柳本々々




  寄り弁をやさしく直す箸 きみは何でもできるのにここにいる  雪舟えま


「寄り弁をやさしく直す」という〈ポジション修正〉の歌なのだが、この歌集『たんぽるぽる』にはもうひとつこんな〈ポジション修正〉の歌がある。

  なめらかにちんちんの位置なおした手あなたの過去のすべてがあなた  雪舟えま

この歌もまた〈ポジション修正〉の歌だ。

虚心に考えてみよう。なぜ、〈ポジショニング〉する必要があるのだろう。

それは、〈固定〉されていないからだ。

  「ちんちんが揺れてたさまを思い出せ春風にさみしくなるときは」  雪舟えま

この歌集『たんぽるぽる』のタイトル自体も「ぽる/ぽる」と「ぽる」がゆらゆらゆれている残像のようにもみえるが、ゆれるものは、位置を直さなければいけない。〈ゆれ〉に対処しなければならない。そう。

わたしはこの歌集のひとつのコンセプトとして〈ゆれ〉への対処があるのではないかとおもう。

「きみは何でもできるのにここにい」て〈ゆれ〉へ対処していること。「あなたの過去のすべて」を所持したうえでの〈ゆれ〉の修正。〈ゆれ〉はつねに「何でも」「すべて」という〈生の全体性〉を想起させる。その〈生の全体性〉のなかで〈ゆれ〉に対処するのが〈部分〉としての個人的・実存的な生である。しかも〈わたし〉の目の前にしかいない〈あなた〉の。

もちろん、「寄り弁」も「ちんちん」も部分的であり、たった〈ひとつ〉しかないものだ。それらは〈全体性〉をもちえない。〈世界の寄り弁〉や〈世界のちんちん〉などないのだから。

  たんぽぽがたんぽるぽるになったよう姓が変わったあとの世界は  雪舟えま

「たんぽぽ」は「たんぽるぽる」として〈ゆれ〉はじめた。もちろんここでは「世界」という〈生の全体性〉を指し示す言葉がある。しかし「寄り弁」や「ちんちん」と違って変わった「姓」は容易には〈修正〉しがたいものだ。

「きみ」や「あなた」は〈位置なおし〉ができるのに〈わたし〉は〈位置なおし〉ができないかもしれない。〈わたし〉にはできないのに、「あなた」たちはやっている。そういう〈ポジショニング〉をかんたんに全体性のもとにしてしまえる「あなた」たちの〈ずるさ〉もこの歌集は内包しているかもしれない。「あなた」たちは、〈わたし〉に対して、ときに、「いつか何かに」とかんたんに言えてしまうくらい、アバウトで〈てきとー〉である、と。

  君がもう眼鏡いらなくなるようにいつか何かにおれはなります  雪舟えま

          (「魔物のように幸せに」『たんぽるぽる』短歌研究社・2011年 所収)