まくなぎの柱を抱けば高むのみ 安井浩司まくなぎは明らかな実体がありながら、堅牢なる触感がなく、集合体でありながら単体に見える。これを人類の集合的意識の暗喩と見る事も可能であろうが、それよりもむしろ生物か否かも、綺麗なのか否かも判然としない奇妙な筒と見たい。まくなぎの揺れ動く柱を抱こうとするのは、風狂の果である。「高むのみ」と、まくなぎにも置いて行かれる地上の自分を嘆いているのである。掲句は「山毛欅林と創造」中の一句(90頁)。
「天心へ立つまくなぎの無為のまま」という句も同集(187頁)にある。「天心へ」(天心に、でないのは、天心への航行は限りがないからだ)立つまくなぎは、「無為のまま」立つのである。「立つ」は本来「発つ」の意も含むから、まくなぎは天心へ移動しつつ、既に天心へ存在し、同時に更なる天心へ向かっているのである。即ち、同時に無限に存在し、到達し得る事があっても極める事が出来ない「天心」なる地点が存在する。ならば、天心は真理の暗喩であろう。「無為ゆえに」立つのだろうか。そうではあるまい。「ゆえに」など理屈であろう。まくなぎはまくなぎ、自分は自分であり、あのまくなぎは偶々無為のまま立っただけである。